五・七・五の十七音で、作者の心情などを綴り詠むのが「俳句」ですが、もっと自由に思いを綴る形もあります。
季語や五・七・五のリズムに捉われず表現される自由律俳句。その自由な表現から、作者の心情や自然の姿などをよりストレートに詠むことができます。
今回は、種田山頭火の有名な句の一つ「あるけばかつこういそげばかつこう」という句をご紹介します。
「あるけば かっこう いそげば かっこう」種田山頭火
郭公(カッコウ)は、夏の季語。ちょうど今頃の初夏の頃。
点字の練習。促音の表現を勉強。 pic.twitter.com/ANXDGmWR7W— ICTバリアフリーオアシス (@info_ict) May 16, 2013
本記事では、「あるけばかつこういそげばかつこう」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「あるけばかつこういそげばかつこう」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
あるけばかつこう いそげばかつこう
(読み方:あるけばかつこう いそげばかつこう)
この句の作者は、「種田山頭火(たねださんとうか)」です。
明治から昭和を生きた流浪の自由律の俳人です。40歳すぎに出家し、全国を放浪する道中でたくさんの俳句を詠みました。
季語
この句の季語は「郭公(かっこう)」、季節は「夏」です。
「閑古鳥」ともいい、「かっこう、かっこう」と鳴く声に特徴があります。五月頃に南の方から渡来し、高原などに住み、秋にまた南の方に帰っていきます。
しかし、こちらの俳句は自由律俳句のため、季語なしの「無季句」と考える説が一般的です。
山頭火自身が歩んで来た俳句人生を考えると、季節にとらわれずに自分の思いを自由に表現したと考えられます。以上の理由から、こちらの俳句は季語を持たない「無季句」であると言えます。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「歩いていく道の途中で、かっこうが鳴いていた。私の足の運びに合わせて、かっこう、かっこうと鳴く。嬉しくなって足を早めてみると、それに合わせて、かっこう、かっこうと鳴くように感じられる。」
という意味です。
山頭火は、初夏の道を一人で歩いていました。すると、「かっこう、かっこう」という鳴き声が聞こえてきました。一人で歩いていますが、かっこうの鳴き声が付いてきているように感じられ、急いで歩くとその鳴き声も合わせて早くなるように感じられるという句です。
かっこうの鳴き声はどこか淋しさを感じさせるものですが、この句では山頭火の歩調が軽やかに進むようにで、明るく楽しい鳴き声に感じられます。
この句が詠まれた背景
この句は昭和15年、句集『草木塔(そうもくとう)』に所収されています。昭和11年(1936年)ごろ、山頭火が54歳の頃に詠まれました。
山頭火は、昭和10年12月6日に東へ向かう旅に出ました。大阪、京都、伊勢、鎌倉、東京、信濃、新潟、仙台、福井などを経て、昭和11年7月22日に其中庵に帰ってきた旅です。
この句は、その旅の中の昭和11年5月中旬に、甲州路から信濃路を歩いた時の体験を詠んだものです。
「あるけばかつこういそげばかつこう」の表現技法
自由律俳句
俳句は通常、定型の五・七・五のリズムや季語が用いられ、詠まれます。
しかし、自由律俳句は定型の五・七・五のリズムや季語などに捉われず、作者が自由に表現できる俳句のことです。
そのため、季語は必要ないので季語が入っていても、それほど重視しません。
この句も、季語はそれほど重視しなくても良いですが、旅の中の句で詠まれた時期がハッキリとしていることと、「かつこう」という音にとても季節感が感じられるため、季語の紹介もしました。
種田山頭火は自由律俳句を詠む俳人で、特にリズム感に優れた俳句を詠みました。
四四調の対句
対句とは、対応する語句を同じ組み立てで並べて印象を強める表現技法です。
この句は【あるけば かつこう いそげば かつこう】と四音ずつの句となっています。また、対句になっており「あるけば」と「いそげば」が同じ構成で並んでいます。
対句にすることで、文にリズム感が出て言葉をより強調することができます。
同音の反復
この句では「かつこう」と同じ言葉が反復されています。
言葉を反復させることで、そのリズムが記憶に残りやすくなります。対句の表現と同様、言葉を強調するという効果もあります。
「あるけばかつこういそげばかつこう」の鑑賞文
初夏に一人で歩いていると、郭公が「かっこう、かっこう」と鳴いていました。
一人で旅をしていましたが、自分の歩みに合わせて「かっこう、かっこう」と鳴くので、嬉しい気持ちになって足を早めると、それに合わせて「かっこう、かっこう」と早く鳴くように感じられ、作者は心がはずんでいます。
山頭火の人生は辛い出来事が多く見られますが、この句はリズムがよく、明るい情景が思い描け、とても楽しい気持ちになれます。
郭公の鳴き声とともに、軽やかに歩く山頭火の姿が目に浮かびます。
作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!
(種田山頭火像 出典:Wikipedia)
種田山頭火は、本名を種田正一(たねだしょういち)といい、明治15年(1882年)山口県佐波郡西佐波令村、現在の山口県防府市に生まれました。
その地域の大地主であった種田家に生まれ、5人兄弟の長男でした。明治25年、10歳の時に母を自死で亡くし、その後は祖母に育てられました。
明治29年、私立周陽学舎(現在の山口県立防府高等学校)に入学し、学友らと文芸同人誌を発行していました。本格的に俳句を始めたのは、明治30年、15歳ごろからと考えられています。
明治34年7月に私立東京専門学校(早稲田大学の前身)へ入学し、翌年7月に卒業します。そして明治35年9月には早稲田大学大学部文学科に入学しますが、明治37年2月に神経衰弱のため退学しました。しばらくは東京で暮らしましたが、病状が回復しなかったため、7月、実家に戻りました。
明治39年に、父が酒造場を買収し、種田酒造場を開業したとみられますが失敗し、明治41年には防府に残っていた家屋敷を全て売却することとなりました。
明治42年、27歳の時には結婚し、長男が生まれました。そして大正2年、31歳の時に荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)に師事し、その後、俳誌『層雲』に「山頭火」の号で自由律の作品を発表しました。
大正5年、種田家が破産し、友人を頼り熊本に移り住みます。熊本で古書店を開業しましたが、経営が軌道に乗らず、妻に任せがちなり、その頃、弟が自死したこともあり、山頭火はお酒を大量に飲むようになりました。
大正8年、37歳の時に妻子を残した身で上京し、翌年には戸籍上離婚しています。その後、関東大震災に遭い熊本に戻りますが、大正13年に報恩寺で出家しました。大正15年には寺を出て西日本を中心に旅をし、俳句を詠み、旅先から『層雲』に投稿しました。
昭和7年には、山口県の小郡町の「其中庵」に住みました。昭和11年には東北地方などを旅し、昭和13年には山口市湯田温泉街に「風来居」、昭和14年には愛媛県松山市に移住し、「一草庵」に住みました。
昭和15年10月11日、一草庵で脳溢血のため、58歳で亡くなりました。昭和7年からの全国各地を放浪した旅で、独自の自由律の句をたくさん詠みました。
種田山頭火のそのほかの俳句
(種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)
- 分け入っても分け入っても青い山
- うしろすがたのしぐれてゆくか
- しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
- どうしようもない私が歩いている
- まつすぐな道でさみしい
- 夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ
- 焼き捨てて日記の灰のこれだけか
- 鴉啼いてわたしも一人
- 笠にとんぼをとまらせてあるく
- こころすなほに御飯がふいた
- 笠も漏り出したか
- 水音の絶えずして御仏とあり
- 濁れる水の流れつつ澄む
- 酔うてこほろぎと寝ていたよ
- けふもいちにち風を歩いてきた
- 鈴をふりふりお四国の土になるべく
- また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
- 生まれた家はあとかたもないほうたる
- ゆうぜんとしてほろ酔へば雑草そよぐ
- また見ることもない山が遠ざかる
- ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
- すべつてころんで山がひつそり
- 生死の中の雪ふりしきる
- 松はみな枝垂れて南無観是音
- 鉄鉢の中へも霰
- 霧島は霧にかくれて赤とんぼ
- ほろほろほろびゆくわたくしの秋