【おちついて死ねそうな草萌ゆる】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五・七・五の十七音で表現する、世界でも短い詩の1つです。

 

季節の自然や出来事を取り入れた季語を詠み込むことによって、さまざまな風景と感情を表現できます。

 

今回は、種田山頭火の有名な俳句の一つである「おちついて死ねそうな草萌ゆる」をご紹介します。

 

 

本記事では、「おちついて死ねそうな草萌ゆる」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「おちついて死ねそうな草萌ゆる」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

おちついて死ねそうな草萌ゆる

(読み方 : おちついて しねそうな くさもゆる)

 

この句の作者は「種田山頭火(たねださんとうか)」です。

 

種田山頭火は明治から昭和にかけて活躍した俳人で、季語を使わず五七五の韻律も使用しない無季自由律俳句で知られています。また流浪の旅をしていたことでも有名で、一部は日記として行程が残されています。

 

 

意味(現代語訳)

こちらの句を現代語訳すると…

 

「ここには落ち着いて死ねそうなほどたくましく草が生え始めている」

 

という意味になります。

 

「落ち着いて死ぬ」「草萌ゆる」という生死の両方を詠むことによって、【晩年にさしかかった自分自身】と【これから新しく生を謳歌する草】の対比をしています。

 

読者に騒音や鮮やかな色彩などの刺激の中ではなく、穏やかな自然の中にいるのだと示しているようです。

 

季語

 

この俳句の季語は「草萌ゆる」、季節は「春」です。

 

「草萌ゆる」は早春に枯れ草の下に隠れるようにして育つ草の芽のことで、「下萌」とも詠まれます。枯れ草が下から生えてくることで強い生命力と春の訪れを感じさせる季語です。

 

この句が詠まれた背景

この句は1940312日の「松山日記」という日記に記された一句です。

 

この当時の山頭火は愛媛県松山市にある「一草庵(いっそうあん)」という場所に滞在しています。これまでの苦行のような旅ではなく、のんびりとした日々を送っていると記されており、そんな中で草が生えてくる様子を見て喜んでいる様子を詠んでいます。

 

対となる句として前年の12月に一草庵に移住した際に詠んだ「おちついてしねそうな草枯るる」という句があり、冬から春にかけて心穏やかに暮らしていた様子が伺えます。この句が詠まれた7ヶ月後に死去していることから、作者の望み通りの生活だったことがわかります。

 

「おちついて死ねそうな草萌ゆる」の表現技法

自由律俳句

この句は通常の五七五の韻律で作られている俳句ではなく、自由律俳句と呼ばれる俳句です。敢えて分けるとすると五五五の十五音から成り立っています。

 

自由律俳句とは、季語を詠みこみ五七五の十七音で構成されるというルール以外で作られた俳句です。季語を詠みながら韻律が自由律なもの、季語も入れずに自由律なものの2つに大別されます。

 

季語が入っていても普遍的な事柄や作者の心情を詠んでいる自由律俳句では無季とされることも多いですが、この俳句は3月に詠まれたもののため、実際に草の芽が出てきているところを目撃して詠んだものであるため、季語のある自由律俳句となります。

 

「おちついて死ねそうな草萌ゆる」の鑑賞文

 

この句は前年に詠まれた「おちついてしねそうな草枯るる」と合わせて鑑賞したい一句です。12月に「枯るる」と詠まれた草が3月になって「萌ゆる」と表現されています。

 

「枯るる」という言葉からは冬の他に死を暗示させる言葉でしたが、これまでの過酷な旅ではなく庵での平穏な生活を経て春を迎え、「萌ゆる」と生命力に感心する句へと変わっているのがポイントです。

 

一度は枯れると詠んだ草について生命力に注目して同じような句を詠むことによって、山頭火自身の気力も充実している様子が見て取れます。

 

日記に「私もこちらへ移つて来てから、おかげでしごくのんきに暮らせて、今までのやうに好んで苦しむやうな癖がだんだん矯められました。」とあるように、純粋に春の訪れを喜ぶ様子を詠んでいます。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火は1882年(明治15年)に、現在の山口県別府市に誕生しました。本名は種田正一(たねだしょういち)といいます。

 

山頭火は大地主の家に生まれて、当時としては裕福な家庭で育ちましたが、10歳の時に母が自死してからは人生が大きく変わってしまいました。現在の早稲田大学に進学するほど、頭脳明晰な人物でしたが、持病のために志なかばで退学せざるを得ませんでした。

 

以降は、父の酒屋を一緒に切り盛りしていきますが、やがて家業までも倒産。さらには、父や兄弟、さらに妻子とも離別して、孤独な人生を歩みます。40歳の時には自殺を図りますが、結局は未遂に終わり、命を助けてくれた寺院で過ごします。

 

自らも僧侶として仏の世界に進む道を選択しますが、僧として修行するには歳が行き過ぎており、修行僧になる夢は叶いませんでした。最終的に、山頭火は拓鉢を持って諸国を巡る行脚僧の道を進みますが、その生活は放浪生活となんら変わりませんでした。

 

山頭火は諸国を旅するなかで、自由律俳句のスタイルで数多くの作品を残しました。それらの作品の多くが、己の人生や旅先で目にした風景などをテーマにしています。

 

たしかに、山頭火の人生は波乱に満ちていましたが、俳人としては「自由律俳句」を代表する読み手としてその名を残しました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)