明治時代に34年という短い人生を駆け抜けた俳人「正岡子規」。
彼は亡くなる前日に3連句を詠みました。その全てに糸瓜という題材が詠み込まれています。
子規庵に行って、子規のヘチマの句を検索す。
子規、辞世の句だそうです。糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間に合わず
をとヽひのへちまの水も取らざりき
ここまで書いて完全に力が尽き、あとは絶命まで目が覚めなかった。 pic.twitter.com/WepzEl4EcF
— kouitikatou 曲がりくねった愛の小径を彷徨うのだ。 (@ikkou33) May 6, 2014
今回は、そのうちの一句、「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」という句をご紹介します。
子規はどのような背景でどのような心情でこのを詠んだのでしょうか?
本記事では、「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の季語や意味・句が詠まれた背景
痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず
(読み方:たんいっと へちまのみずも まにあわず)
こちらの句の作者は、「正岡子規」です。
こたらの句は子規が34歳で亡くなる前日に詠んだものです。それでは、この句の解説を進めていきましょう。
季語
こちらの句の季語は「糸瓜(へちま)」です。
【へちまの花】だと晩夏。【へちま】単体だと秋を指します。
この句は、「糸瓜咲て痰のつまりも佛かな」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」とともに詠まれています。
つまり、へちまの花が咲き、へちまから取れる水を詠んでいることから晩夏から初秋に詠まれていることがわかります。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「病いのため痰が喉につまり、漢方薬のへちまの水を飲むが次々と痰が出てこの水も間に合わない」
という意味になります。
「痰がたくさん出てしまった。庭に糸瓜の花が咲いたけれども、その水では、もうこの痰を取りきることはできない。この身に効果はないだろう」という闘病の苦しみ・落胆の気持ちを表しています。
たくさんの痰に悩まされている状況を「痰一斗」という単位で書き表しています。
一斗というと18リットルですから、かなり大げさな量ですが、それだけつらやさ苦しみがあったことがわかります。
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の表現技法
初句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「痰一斗」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の鑑賞文
(1890年に撮影された野球ユニフォーム姿の子規 出典:Wikipedia)
この句をより理解するには「間に合わず」と詠んだ子規の心情に触れてみなければなりません。
まず、物質的にヘチマの水の量が不足しているという写実的な描写です。「一斗も出る痰には庭のヘチマの水がいくらあっても足りないのだ」という、意味の「間に合わず」です。
次に、時系列的に時間が不足しているという表現です。ヘチマは秋に完熟し、その時期にもっとも新鮮な水が得られます。
子規が没日したのが9月19日なので、ヘチマが完熟するまであと少しだが、完熟するその日までこの命があるか、その水を待って痰を切ることができるのかという期待を込めた「間に合わず」です。
そして、最後に子規は長く結核を患い34歳でその生涯を閉じます。まだ若く、やりたいこと・成し遂げたいことがたくさんあったことが予想されます
しかし、それを全てやり遂げるにはこの身で成しえない、残された自分の寿命では「間に合わず」という思いを込めているものでもあります。
つまり、【ヘチマの水だけでは足りないのだという事実】と【俳句の世界に生きた子規の単語に託す遊び心や滑稽さ】を「間に合わず」と詠んだのだと思われます。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年現松山市に生まれ。2歳で失火のため自宅が全焼、5歳の時には父が40歳で病死したため、子規が家督を相続します。
幼少期の子規は叔父の佐伯半弥に習字を習い、祖父で儒学者の大原観山に素読を習い、漢詩も学びます。
その後、13歳で入学した東京大学予備門時代に夏目漱石と出会い、その交流はその後もずつと続きます。
21歳には養祖母の死に追悼句として瓜の句を詠みました。しかし、その年の8月初めて喀血。肺結核を発症します。
子規とはホトトギスの漢字表記です。ホトトギスは「血を吐くまで泣き続ける」「口の中が赤い」そうで、その姿と自分の結核で血を吐いている姿を重ねたと言われています。
その後、25歳で日本新聞社に入社しますが、病はどんどん進行。28歳の時には一時重体となります。
静養後も連日のように句会を開催するなど精力的に活動を続けていましたが、1902年9月19日静かに永眠することになります。
そして子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」と呼ばれるようになりました。
正岡子規のそのほかの俳句
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし