【痰一斗糸瓜の水も間に合わず】俳句の季語や意味や解釈・表現技法・作者など徹底解説

 

明治時代に34年という短い人生を駆け抜けた俳人「正岡子規」。

 

彼は亡くなる前日に3連句を詠みました。その全てに糸瓜という題材が詠み込まれています。

 

 

今回は、そのうちの一句、「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」という句を紹介していきます。

 

子規はどのような背景でどのような心情でこの俳句を詠んだのでしょうか?

 

本記事では、「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法など徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の季語や意味・句が詠まれた背景

グリーンカーテン

 

痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず

(読み方:たんいっと へちまのみずも まにあわず)

 

この句の作者は「正岡子規(まさおかしき)」です。

 

正岡子規は、和歌や俳諧などの国文学の研究もよくし、近代の短歌や俳句の礎を築き上げた明治時代の文学史に燦然と輝く星のような文学者です。俳句だけではなく、短歌、小説、随筆など多彩な創作活動をしていました。

 

こちらの句は子規が34歳で亡くなる前日に詠んだものです。

 

 

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それでは、この句の解説を進めていきましょう。

 

季語

こちらの句の季語は「糸瓜(へちま)」です。

 

【へちまの花】だと晩夏。【へちま】単体だと秋を指します。

 

この句は、「糸瓜咲て痰のつまりも佛かな」「をとゝひのへちまの水も取らざりき」とともに詠まれています。

 

つまり、へちまの花が咲き、へちまから取れる水を詠んでいることから晩夏から初秋に詠まれていることがわかります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「病いのため痰が喉につまり、漢方薬のへちまの水を飲むが次々と痰が出てこの水も間に合わない。」

 

という意味になります。

 

「痰がたくさん出てしまった。庭に糸瓜の花が咲いたけれども、その水では、もうこの痰を取りきることはできない。この身に効果はないだろう」という闘病の苦しみ・落胆の気持ちを表しています。

 

たくさんの痰に悩まされている状況を「痰一斗」という単位で書き表しています。

 

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一斗というと18リットルです。かなり大げさな量ですが、それだけつらやさ苦しみがあったことがわかります。

 

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の表現技法

初句切れ

句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。

 

句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。

 

この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「痰一斗」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。

 

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の鑑賞文

(1890年に撮影された野球ユニフォーム姿の子規 出典:Wikipedia)

 

この句をより理解するには「間に合わず」と詠んだ子規の心情に触れてみなければなりません。

 

まず、物質的にヘチマの水の量が不足しているという写実的な描写です。「一斗も出る痰には庭のヘチマの水がいくらあっても足りないのだ」という、意味の「間に合わず」です。

 

次に、時系列的に時間が不足しているという表現です。

 

ヘチマは秋に完熟し、その時期にもっとも新鮮な水が得られます。

 

子規が没日したのが9月19日なので、ヘチマが完熟するまであと少しだが、完熟するその日までこの命があるか、その水を待って痰を切ることができるのかという期待を込めた「間に合わず」です。

 

そして、最後に子規は長く結核を患い34歳でその生涯を閉じます。まだ若く、やりたいこと・成し遂げたいことがたくさんあったことが予想されます

 

しかし、それを全てやり遂げるにはこの身で成しえない、残された自分の寿命では「間に合わず」という思いを込めているものでもあります。

 

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つまり、【ヘチマの水だけでは足りないのだという事実】と【俳句の世界に生きた子規の単語に託す遊び心や滑稽さ】を「間に合わず」と詠んだのだと思われます。

 

「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」の補足情報

絶筆三句の順番

作者の絶筆は、下記の順で執筆されています。

 

「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」

「痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず」

「をととひの 糸瓜の水も 取らざりき」

 

これは、自分が仏となった状態から「何故痰がつまって死んでしまったか」を回想している順番になっています。

 

痰を一斗も吐いたためにヘチマ水が間に合わず、薬効があるという満月の晩のヘチマ水を取り損ねたからこそ痰を一斗も吐いて死んでしまったと詠んでいるのです。

 

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詠まれたのは亡くなる前日のお昼頃だとされていますが、最期までユーモアを忘れない俳人であったことが伺えます。

 

ヘチマ水と作者の求めた効能

 

秋に実が完熟した頃、地上30 - 60 cmほどの所で蔓(茎)を切り、根側の切り口をビン容器に差し込んで、口元を綿栓で塞いでしばらく置くと、根から吸い上げられた水がビン容器に溜まり、この液体のことを「へちま水」といいます。

 

根まわりに水を十分与えておくと、数日で500 - 2000 ccほどの液が採れます。化粧水として用いるほか、民間薬としては飲み薬や塗り薬として用いられていました。

 

民間療法で咳、痰、利尿の目的で使用するときは、生の果実を輪切りにしてそのまま煮出してから汁を飲みます。

 

ヘチマ水に含まれるカリウムのアルカリ性とサポニンにより去痰作用があるといわれているため、「痰一斗」はこの咳止めの効能に関わるものでしょう。

 

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また、漢方としてヘチマを使う際は熱を取り除いたり、吐血を抑制したりする効果があるとも信じられていました。

 

国民病だった結核

作者も患っていた結核は、明治時代以降「国民病」「亡国病」と呼ばれるほど流行し、治療手段のない病気でした。

 

特に大正時代以降に紡績工場で働く人々に被害が多く、長時間低栄養で働かされていた人達が感染し、被害が広まっていきます。

 

具体的な治療方法がなかったため、冷涼な気候と栄養豊富な食事で治そうとする「サナトリウム」が作られるのもこの頃です。

 

1882年に結核菌による感染であることがわかり、1921年頃からBCGワクチンの接種が開始、1943年に有効な抗生物質であるストレプトマイシンが発見されるまで、不治の病として紀元前から6000年近く猛威をふるっていたとされています。

 

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作者の時代ではワクチンもまだ発見されていないため手の施しようがなく、ヘチマ水などの対処療法に賭けるしかなかったのでしょう。

 

作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!

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(正岡子規 出典:Wikipedia)

 

正岡子規は1867年現松山市に生まれ。2歳で失火のため自宅が全焼、5歳の時には父が40歳で病死したため、子規が家督を相続します。

 

幼少期の子規は叔父の佐伯半弥に習字を習い、祖父で儒学者の大原観山に素読を習い、漢詩も学びます。

 

その後、13歳で入学した東京大学予備門時代に夏目漱石と出会い、その交流はその後もずっと続きます。

 

21歳には養祖母の死に追悼句として瓜の句を詠みました。しかし、その年の8月初めて喀血。肺結核を発症します。

 

子規とはホトトギスの漢字表記です。ホトトギスは「血を吐くまで泣き続ける」「口の中が赤い」そうで、その姿と自分の結核で血を吐いている姿を重ねたと言われています。

 

その後、25歳で日本新聞社に入社しますが、病はどんどん進行。28歳の時には一時重体となります。

 

静養後も連日のように句会を開催するなど精力的に活動を続けていましたが、1902年9月19日静かに永眠することになります。

 

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そして子規の忌日919日を「糸瓜忌」と呼ばれるようになりました。

 

正岡子規のそのほかの俳句

子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia