【隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

「俳句」は日本文化として、海外でも知られています。

 

趣味として俳句に親しむ人も増え、テレビ番組でもおなじみになってきました。

 

今回は、有名俳句の一つ隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かなという句をご紹介します。

 

 

本記事では、隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かなの季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

隠岐やいま 木の芽をかこむ 怒涛かな

(読み方:おきやいま このめをかこむ どとうかな)

 

この句の作者は、「加藤楸邨(しゅうそん)」です。

 

明治時代から平成にかけて活躍した俳人であり、国文学者でもあります。

 

季語

この句の季語は「木の芽(このめ)」、季節は「春」です。

 

木の芽とは、樹木の新芽のことです。

 

木々の芽吹いている様子は、春の始まりをつげます。新しい芽は、香りや味の良い植物であれば、食用にされることもあります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「後鳥羽院のおられたこの隠岐の島は、今いっせいに木の芽が芽吹いているが、島を囲むように、日本海の厳しい荒波が打ち寄せているよ」

 

という意味です。

 

隠岐の島は、島根県にあります。四方を日本海に囲まれており、特に冬は荒波が寄せる厳しい風土で知られていました。現在では、自然を生かした観光が盛んです。

 

後鳥羽上皇は、鎌倉時代に鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵をあげた人物です。

 

この承久の乱に朝廷側は敗れてしまい、隠岐へと流されます。そして約18年間、隠岐で過ごし亡くなりました。

 

この句が詠まれた背景

この句は、1943年に発表された句集「雨後の天」に収められています。

 

楸邨は「隠岐紀行」として、隠岐に訪れた際に句を詠んでおり、その中から選んだ句を句集「雨後の天」へ載せています。

 

松尾芭蕉の研究をしていた楸邨は、芭蕉が柴門(さいもん)の辞で・・・

 

“後鳥羽院の「実ありて悲しびをそふる(訳:歌には真心があってしみじみと趣がある)」という御言葉に力として、その細い一筋の伝統を失ってはならない”

 

と書いていることに突き動かされ、1941年(昭和16年)3月に隠岐へと渡りました。

 

12月には太平洋戦争が始まる暗い時代でしたが、楸邨は怒涛のように厳しい現実のなか、後鳥羽院、芭蕉の伝統の道を自分も進んでいこうと決意を新たにしました。主宰誌「寒雷」を創刊したばかりの決意も込められています。

 

「隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな」の表現技法

「怒涛かな」の「かな」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目(文としての意味の切れ目)や、作者の感動の中心を強調するときに使います。

 

この句では「隠岐や」の「や」は、間投助詞「の」に置き換えられる・軽く切れているので切れ字とはみなさないとされています。

 

そのため、「怒涛かな」の「かな」が詠嘆や感動を表現する切れ字にあたります。

 

句切れはどこなのか

意味やリズムの切れ目を句切れといいます。この句では、句切れの説が2つあります。

 

1つめは、意味のきれめで「いま」を句切れとし、「初句切れ」と考える説です。2つめは、三句の最後に「かな」の切れ字が含まれるため、「句切れなし」と考えます。

 

ちなみに「隠岐や」の「や」は、句切れではないと考えられています。

 

対比

対比とは、2つ以上のものを並べあわせて、その特徴や相違点を強調します。

 

この句では、「流刑の地として恐れられていた隠岐の島の厳しい風土」と「春の訪れをつげる木の芽と怒涛のような荒波の生命感」が対比されています。

 

また、隠岐の島や打ち寄せる波と、小さな木の芽の「大きな自然の中の小さな芽吹き」という視点でも対比と考えられます。

 

「隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな」の鑑賞文

 

隠岐での滞在の最後に、楸邨はこの句を詠みました。

 

当時は戦争の足音が近づいており、厳しくつらい時代が来ようとしていても、自分自身は後鳥羽院や芭蕉のように、決めた俳句の道を進もうと考えていました。

 

木の芽は希望であり、厳しい風土や怒涛のような波にも負けずに生きていこうと木の芽に自身を重ねていたのかもしれません。

 

楸邨は、随筆「隠岐」の中で「私の心の中の怒濤が、次第に隠岐の怒濤と一つになりはじめていた。つまり、滲みあうように内と外とが重なり合ってきたわけである。」と書いています。

 

自分の中で、湧き上がる思いを景色に重ねて句に詠みこむ、楸邨の気迫が伝わってきます。

 

作者「加藤楸邨」の生涯を簡単にご紹介!

 

加藤楸邨は、明治38年(1905年)に現在の東京都大田区北千束に生まれました。

 

若くして父親が病気になり亡くなったため、進学をあきらめ、教員として働きはじめます。1931年に学校の同僚の誘いをきっかけに俳句を始め、近くの病院に応援診療に来ていた水原秋櫻子に出会い、師事し投句を始めます。すぐに頭角を現し、1933年には「第2回馬酔木賞」を受賞します。

 

1937年には俳句を学ぶために、教員を辞め、妻と3人の子供を連れて上京し、東京文理科大学(現在の筑波大学)国文科に入学します。中村草田男や石田波郷とともに「人間探求派」の作風と呼ばれ、「俳句のなかに人間としての生活を詠み、自己を表現する」ことを大切にしていました。

 

卒業後に俳句雑誌「寒雷」を創刊しますが、戦争が激しくなり休刊します。大空襲で財産や蔵書や原稿をほぼすべて失いますが、19468月に復刊させました。晩年は、病の療養をしながら後進の育成に努め俳句の普及に尽力しました。

 

平成5年(1993年)に88歳にて亡くなりました。

 

加藤楸邨のそのほかの俳句