俳句は決まりごとが多く、一見覚えることが多そうに感じる方もいらっしゃると思います。
しかし、俳句の中にはルールに縛られず感情や情景を率直に表現した「自由律俳句」と呼ばれるものもあります。
例えば…今回ご紹介する「夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ」という句も自由律俳句の一つです。
午後、突然の豪雨に遭遇。
雨宿りでやり過ごす。夕立や お地蔵さんも わたしもずぶぬれ (種田山頭火) pic.twitter.com/wysDnhcdOU
— 一刻館 (@ikkokukandesu) June 30, 2018
本記事では、「夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ」の季語や意味・表現技法・鑑賞文など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ」の作者や季語・意味
夕立や お地蔵さんも わたしもずぶぬれ
(読み方:ゆうだちや おじぞうさんも わたしもずぶぬれ)
この句の作者は「種田山頭火」です。
40歳を過ぎて出家し、乞食行脚(こつじきあんぎゃ)の修行を積んだ俳人です。その生涯において8万4千もの句を残したと言われています。
季語
この句の季語は「夕立」で、季節は「夏」を表します。
夕立とは、夏の晴れ間が多い時期のお昼ごろから夕方にかけて降るにわか雨のことを言います。
急に降り出し短時間でおさまるので、近くの軒下などで雨宿りをした方も、たくさんおられるのではないでしょうか。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「夕立だ。(突然のことで、道端の)お地蔵さんも、(傘のない)私もずぶぬれになってしまった・・・」
という意味になります。
口語体で詠まれているため、この句をそのまま読むのとほとんど変わりがありません。
この句が作られた時期は、山頭火が晩年、終の棲家となる「一草庵」に住み始めてからであると言われています。
一人で旅に出て、歩を進める道すがら、そこで彼を見つめているのは唯一「お地蔵さん」だったのかもしれません。
「夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ」の表現技法
自由律俳句
この句は季語や切れ字が存在しますが、「五・七・五」の十七音や季語を必ず必要とする「定型俳句」ではなく「自由律俳句」となっています。
「自由律俳句」とは、自由に感情の赴くままに表現することに重きを置かれた俳句であり、特に技巧を必要とすることもありません。
ですから、心に響いたものをそのまま表現できる自由且つシンプルな俳句であると言えるでしょう。
切れ字「や」(初句切れ)
この句の切れ字は「夕立や」の「や」で、「初句切れ」になります。
このように句切っていくことで、「夕立」にこめられた作者の感情や状況を想像しながら続きを待つことができます。
しかし、こちら句は自由律俳句になりますので、一切の表現技法を排しています。そのため、切れ字「や」は必ずしも作者の意図したものではありません。
体言止め「ずぶぬれ」
体言止めとは、句末に名詞や代名詞などを用いる技法です。「ずぶぬれ」の「ぬれ(濡れ)」は「ぬれる(濡れる)」の転成名詞になっているため、「体言止め」の句になります。
「ずぶぬれ」という表現そのものが単に「濡れ」というより強い印象を与えますが、あえて「ずぶぬれ」と言い切る形をとることで、より一層強調されています。
しかし、こちらの表現技法も切れ字と同様、必ずしも作者の意図したものではありません。
「夕立やお地蔵さんもわたしもずぶぬれ」の鑑賞文
この句を読むと、そこに詠われている情景が自然に浮かんできます。
この句には作者のお地蔵さんに対する「敬愛の念」の心情が込められているように感じます。
じつはこの句を詠む前までの山頭火の生涯は、災難続きで大変なものでした。
幼い頃に自死により母を亡くし、生涯彼は心に深い傷を負うことになります。大学進学後には、精神的に不安定な状態になり大学を中退。そして、父と起こした酒造業の倒産により運命の歯車が狂っていきます。
父の蒸発・借金を苦にした弟の自死・そして自身も夜逃げ同然で故郷を後にしたものの、店の経営に失敗するなどし、妻子と別居・離婚。不幸に遭遇する度に、彼はどんどん酒に溺れていきました。
彼には常に苦悩が付きまとったことでしょう。弱すぎる自分に、決して満たされない心に…。
その後、自死を試みますが、一命をとりとめます。そんな彼ですが、「旅の間は死を思いとどまることができた」旨を記しています。
それは行乞の旅が仏様と共にあったからなのかもしれません。仏様に救われ安堵していられたからなのかもしれません。
「仏様とお地蔵さん」ここに共通した思いがあったのではないでしょうか?
同じように自分を見守ってくださる存在として、路傍に佇むお地蔵さんが突然の雨に自分と同じようにずぶぬれになっている光景を目にし、親しみ深く、どこかほっとした気持ちになったのでしょう。
この句とともに、山頭火の笑顔が浮かんでくるようです。
作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!
(種田山頭火像 出典:Wikipedia)
種田山頭火は、1882(明治15)年、山口県防府市に生まれる。本名は正一(しょういち)。
大地主の家に長男として生まれるも、小学生のとき、妾(めかけ)を苦に母が自死するなど、家庭環境には恵まれませんでした。
20代半ばから父と始めた酒造業は、うまくいかず倒産。
やがて一家は離散し、山頭火も妻子とともに熊本へ逃れ、古書店などを営みますが安定した生活はできず、仕事も家庭も定まらぬまま生活に困窮します。その後、単身で上京するなどし、離婚へ。
精神的に不安定な面があり、大学を中退したり仕事が続けられなかったり、命を絶とうとしたりしますが、42歳のとき出家し、翌年には乞食行脚に出ます。
無類の酒好きで、身を持ち崩してもそれを断つことはできませんでしたが、師である荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)や句友達の助けにより、安らかに最期を迎えることができました。享年58歳でした。
種田山頭火のそのほかの俳句
(種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)