四季折々の美しい光景や繊細な心の動きを、五・七・五の十七音につめこむ「俳句」。
古典文学の時代から少しずつ変化を繰り返し、日本人の心として親しまれてきました。
小学校、中学校、高校の国語の教科書でも取り上げられ、なじみのある句も多くあることでしょう。
名句と呼ばれる優れた美しい句はたくさんありますが、今回はそんな名句の中から【雪残る頂ひとつ国境】という正岡子規の句をご紹介します。
雪残る
頂一つ
国境 正岡子規
#惜春の俳句#正岡子規 pic.twitter.com/Y292QyB63r
— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) May 5, 2015
本記事では、『雪残る頂ひとつ国境』の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「雪残る頂ひとつ国境」の作者や季語・意味・詠まれた背景
雪残る 頂(いただき)ひとつ 国境(くにざかい)
こちらの句の作者は「正岡子規」です。
正岡子規は明治期に活躍した俳人・歌人であり、国文学の研究者でもありました。
季語
季語は、草木や、虫や動物、天候を表す言葉に注目していくと見つけやすいです。
こちらの句の季語は「雪残る」です。
「雪残る」は冬の季語と間違えやすいですが、春の季語に分類されます。
音読みにして「残雪」(ざんせつ)とも言います。
「雪残る」「残雪」とは、春になったのに消えないで残っている雪のことです。
単に「雪」であれば冬の季語なのですが、「残る」という言葉がつくと「春なのにまだ残っている」という意味が加わって春の季語になるのです。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「国境(くにざかい)の山の一つの頂きにのみ、雪が残っているよ。」
という意味になります。
平野の雪は解け、高い頂に雪が残るのみとなった、早春の句になります。
この句が生まれた背景
こちらの句は、明治32年(1899年)に詠まれた句です。
正岡子規は、若いころから結核菌に冒されており、晩年の数年間を子規はほぼ病床で過ごしました。
そして、この句が詠まれたのは亡くなる二年ほど前のことです。
一見するとこの句は、目の前にある景色を言葉で写し取ったかのような趣のある句ですが、実際は頂に雪を残した山を現実に目にして詠まれた句ではありません。
病床にあって、早春の外の世界に想いを馳せて詠まれた句なのです。
「雪残る頂ひとつ国境」の表現技法
こちらの句で用いられている表現技法は・・・
- 倒置法
- 「国境」の体言止め
になります。
倒置法
倒置法とは、普通の言葉の順とをさかさまにして、印象を強めたり、余韻を残すような効果を上げる表現技法です。
この句は、言葉の並びそのままに意味をとると「雪が残る山の頂が一つあることだよ、国境に。」となります。
一方、普通の言葉の並びでは、「国境に、雪が残る山の頂きが一つあることだよ。」です。
言葉の並びを変えることで余韻を残し、読み手にその情景を伝えやすく工夫されています。
「国境」の体言止め
体言止めとは、文の終わりを体言(つまり名詞)にすることで、意味を強めたり、余韻を残す効果があります。
この句では「国境」部分がそれにあたります。
最後に「国境」という名詞で終わることで、読み手に「国境」という言葉を印象付けます。
国境を超えて旅をしていくのでしょうか?それとも国境の向こうにある何かに心ひかれているのでしょうか?
体言止めの「国境」という言葉によって、視線が遠くに誘われて行くようです。
「雪残る頂ひとつ国境」の鑑賞文
【雪残る頂ひとつ国境】の句は早春の空のもと、国境にそびえる山、その山頂に残る雪が描かれています。
雪が残る山は芽吹きがまだ遠く、暗い色合いであることでしょう。
また、黒っぽい山肌に残る白い雪、コントラストが鮮やかです。天候まで触れられていないものの、柔らかな光のあふれる春の青空が想像されます。
青い空、暗い山肌、輝く白い雪。色彩イメージが豊かな句です。
さらに、こちらの句は目の前の早春の風景をスケッチしたような絵画的ですが、この時子規は国境の山を望める様な状態ではありません。病床にあり、遠くの国境の春を想像して詠まれました。
子規は病に体はむしばまれても、その精神のエネルギーはのびやかに創作活動に向かっていたのです。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年(慶応3年)、愛媛県松山市の生まれ。本名は常規(つねのり)です。
じつは子規とは本来はホトトギスという鳥を指す言葉です。ホトトギスは、のどから血を流して鳴く鳥ともいわれます。
若いころから結核を患い、喀血を繰り返していた青年・正岡氏は、ホトトギスに我が身をなずらえ、自ら子規という俳号を名乗ったのです。
死に至る病と向き合いつつも和歌や俳諧といった古典文学を研究し、革新のための活動に励み、近代日本文学史に名を残しました。
死に向き合ってなお正岡子規の作風には、ユーモアや余裕、自らを客観視する冷静な視点がありました。
明治35年(1902年)享年34歳にて、惜しまれつつこの世を去りました。
正岡子規のそのほかの俳句
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし