【山里は万歳遅し梅の花】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

日本だけでなく世界的にも有名な俳人「松尾芭蕉」。

 

数多くの名句や紀行文を残し、後世の文学や芸術にも大きな影響を与えています。

 

芭蕉が残した名句は数多くありますが、今回は【山里は万歳遅し梅の花】という句について紹介したいと思います。

 

 

現代の生活では聞きなれない「万歳」や「遅し」という言葉には、どのような意味があるのでしょうか?また、この句に詠み込められた情景も気になりますね。

 

本記事では、【山里は万歳遅し梅の花】の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきます。

 

「山里は万歳遅し梅の花」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

山里は 万歳遅し 梅の花

(読み方:やまざとは まんざいおそし うめのはな)

 

この句の作者は「松尾芭蕉(まつお ばしょう)」です。

 

芭蕉は江戸時代前期に活躍した俳諧師です。当時は言葉遊びとされていた俳諧を、芸術の域にまで高めた人物で「俳聖」とも称されました。

 

また「漂泊の俳人」とも呼ばれており、40歳を過ぎてからは俳句を詠みながら日本各地を訪れています。紀行文学の最高傑作『奥の細道』など、5つの旅行記を残しています。

 

季語

この句に含まれている季語は「梅」で、季節は「春(早春)」を表します。

 

一年のうちで最も寒い時期にぽつりぽつりと咲き始める梅は、いち早く春の訪れを知らせる花として親しまれてきました。

 

他の花に先がけて咲く梅は、「花の兄」「百花のさきがけ」とも呼ばれています。その気品ある姿や香りは万葉の昔から日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきました。

 

また、この句には「万歳」という言葉もあります。

 

万歳とは新年を祝う門付芸の一つで、「新春」を表す季語になります。

 

このように一句の中に二つ以上の季語が入ることを「季重なり」といい、一般的には句の主題が不鮮明になるため避けたほうが良いとされています。

 

しかし、主題となる季語がはっきりとしており、句の内容が損なわれない場合は用いられる技法です。

 

この句の場合、芭蕉の感動の中心は春を告げる梅であり、句の最後に置かれた「梅の花」が季語だとされています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「辺鄙(へんぴ)な山里では、正月も半ば過ぎ梅の花が咲く頃になって、ようやく万歳がやってきたことだ」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

この句は、松尾芭蕉が元禄4年(1691年)の正月すぎ、故郷の伊賀上野(現在の三重県伊賀市)で過ごした際に詠んだ句です。

 

この頃は約5ヶ月かけて北陸・東北を中心にまわった「おくのほそ道」の旅から戻った、晩年の時期あたります。

 

自らの老いと死を覚悟しながら挑んだ過酷な旅を終え、久しぶりに訪れた故郷ののどかな風情に、芭蕉の心やすらぐ姿が目に浮かびます。

 

この句に用いられている「万歳」とは、正月を迎えた民家で「千年も万年も栄えるように」と新年を祝う民俗芸能です。

 

主役の万歳太夫と鼓を打つに脇役の才蔵の二人一組で行われ、舞や歌で人々を楽しませていました。時には滑稽な問答を交わしたりすることから、現在の「漫才」の元祖だとも言われています。

 

室町時代には家々を訪れるようになり、やがて江戸時代には都や周辺各地で、万歳師の拠点がでできていました。

 

しかし、万歳師も新年を祝うといっても、実入りがよく家が密集している都を先に巡ります。芭蕉の故郷のように、都会から離れた田舎では後回しになるのも仕方がありませんでした。

 

梅の花がほころび始める頃、ようやくやってきた万歳師たちに、まるでもう一度正月の気分が舞い戻ってきたかのように感じたことでしょう。

 

芭蕉はそんな背景をふまえ、「山里は万歳遅し梅の花」と詠んだのでした。

 

「山里は万歳遅し梅の花」の表現技法

「万歳遅し」の切れ字「し」(二句切れ)

俳句の切れ字といえば代表的なものに「かな」「けり」「や」がありますが、「し」もそのひとつに含まれています。

 

切れ字としての「し」は、形容詞の語尾につき終止形を表します。

 

この句では「遅い」という形容詞に「し」がついており、「万歳がやってくるのが遅いことであるなあ・・・」と詠嘆が込められています。

 

また切れ字を使うことで、一句の中で意味や調子の切れ目が生まれます。

 

これを句切れといい、この句では二句のところで切れているので「二句切れ」となります。

 

「梅の花」の体言止め

体言止めとは、語尾を体言(名詞・代名詞)で結ぶ技法のこと指します。

 

文を断ち切ることでリズムを持たせ、その後に続く余韻を残すことができます。

 

この句でも「梅の花」と体言止めが使われており、芭蕉の感動の中心が「梅の花」にあることが分かります。

 

芭蕉が吟じたのは梅が咲く頃、つまり新年を祝う冬ではなくすでに早春を迎えていることを強調したかったのでしょう。

 

「万歳」と「梅の花」の取り合わせ

取り合わせとは、季節を表す語とそれ以外の関連性のない語を組み合わせる技法のことです。

 

意外な語をあえて取り合わせることで、句の情景に奥行きを持たせる効果があります。

 

芭蕉も俳句は「取り合はせ物と知るべし(意味:俳句は甲と乙の組み合わせによって決まる)」という言葉を残しており、取り合わせを重要視していたことが伺えます。

 

「万歳」といえば必ず「梅の花」を連想するかというとそうではありません。むしろ言葉の持つイメージは正反対といえるでしょう。

 

鼓を打ちめでたさを振りまく「万歳」はどこか滑稽味さえ感じられ、「梅の花」からはどことなく厳かな雰囲気が漂います。

 

この異なる二つの世界が相乗効果を発揮し、深い味わいある一句になっています。

 

「山里は万歳遅し梅の花」の鑑賞文

 

正月も過ぎ、梅の花が咲き始める頃になってようやく万歳がやってきました。かつて暮らしていた江戸や京都といった都会では見られなかった光景でしょう。

 

苦笑しながらも、微笑ましく眺めている芭蕉の心情が伝わってきます。

 

万歳には新年の嬉しさや賑やかさだけではなく、わっと騒いで去っていく姿にどこか物寂しさも感じられます。

 

そこに凛と咲く風雅な梅の花を取り合わせることで、万歳をわびしい次元の世界へと書き出しています。

 

もしこの句に詠んだ花が梅ではなかったら、きっとまた別の感じになっていたことでしょう。

 

たった十七音からこれだけ多くの感情や情景を表現できる、芭蕉という人間の豊かさが伝わる名句です。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉(16441694年)は伊賀国(現在の三重県)に生まれました。

 

本名は松尾宗房(むねふさ)で、芭蕉は俳句を作る人が名乗る「俳号」になります。

 

農民の生まれだとされていますが、幼少期のことは明らかになっていません。10代後半の頃から当時でも有名であった京都の北村季吟に弟子入りし、俳諧を学び始めます。

 

その後、若手俳人として頭角をあらわしていき、江戸へと下りさらなる修行を積みました。武士や商人に俳句を教えるかたわら、数々の作品を発表し「蕉風」と呼ばれる奥深い趣を尊ぶ句風を確立しました。

 

45歳の頃、弟子の河合會良とともに、「奥の細道」の旅に出ます。約150日間をかけて東北・北陸を巡り、全行程で約2400kmもの距離を歩いたと言われています。

 

平均すると一日4050kmほどの道のりを、初老の男性が歩いて旅をしていたとはにわかに信じがたいことです。尋常ともいえる体力や、芭蕉の出身地が伊賀であることから、実は忍者だったのではないかという説まで生まれました。

 

芭蕉は訪れた地で多くの弟子を獲得し、歳を重ねるにつれ芭蕉を慕う俳人は増えるばかりでした。

 

51歳の頃、大坂へ向かう道中で病に臥しそのまま亡くなりますが、芭蕉の葬儀には300人以上の弟子が参列したといわれています。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(新大仏寺の芭蕉塚 出典:Wikipedia

 

  • 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」
  • 「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」
  • 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」
  • 「五月雨の 降りのこしてや 光堂」
  • 荒海や 佐渡に横たふ 天の河
  • 「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
  • 「夏草や 兵どもが 夢の跡」
  • 「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
  • 「石山の 石より白し 秋の風」
  • 「あらたふと 青葉若葉の 日の光」