【戦歿の友のみ若し霜柱】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

日本には近現代になって作られた多くの俳句が残されています。

 

中には、戦時中や戦後をテーマに詠まれた作品があります。

 

今回はそんな戦争をテーマにした俳句の中から「戦歿の友のみ若し霜柱」という三橋敏雄の句をご紹介します。

 

 

本記事では、「戦歿の友のみ若し霜柱」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「戦歿の友のみ若し霜柱」の作者や季語・意味

 

戦歿の 友のみ若し 霜柱

(読み方 : せんぼつの とものみわかし しもばしら)

 

こちらの句の作者は、日本を代表する俳人「三橋敏雄(みはし としお)」です。

 

こちらの作品は、「真珠湾攻撃」開戦記念日がある12月に詠まれました。霜柱が降りるほど寒い冬の朝に、戦争で親しい友を亡くした作者が悲しみを詠んだ作品です。

 

季語

こちらの季語は「霜柱」で、季節は「冬」を表します。

 

日本の四季や伝統行事について記載している「歳時記」では、三冬を表現します。

 

参考までに三冬とは「初冬・中冬・晩冬」を示し、具体的な月数では10月・11月・12月」です。俳句の世界は、太陰暦で季節を表現するため、太陽暦を使用する現代とはズレが生じます。

 

意味&解釈

こちらの句の現代語訳は・・・

 

「戦争で亡くなった友だけが若いままだ、霜柱」

 

となります。

 

こちらの句のキーポイントは「霜柱」です。霜柱は、人に踏まれるとサクサクと崩れ落ちなくなってしまうものです。また、白く純粋で清らかなものとしてもイメージできます。

 

つまり、ここでは「霜柱=若くして亡くなった友達の命」を表現しています。

 

残された自分や周りの仲間たちは、年月の経過により年を重ねますが、戦争で若くして亡くなった友達は、永遠に若いままの姿で作者や友人の記憶に残ったままです。

 

霜柱を踏むことで、そんな若くして命を落とした友達のはかない命が思い出されるのです。

 

「戦歿の友のみ若し霜柱」の表現技法

「霜柱」の部分の「体言止め」

体言止めとは、文末を名詞や代名詞などの体言で止める技法の事を指します。

 

文末を体言止めにする事で、文章全体のイメージが強調され読者に伝わりやすくなります。

 

こちらの俳句では「霜柱」で末尾を結ぶことによって戦争で亡くなった共を思う作者の気持ちが、霜柱のように冷たく悲しいものであると表現されています。

 

「戦歿の友のみ若し霜柱」の鑑賞文

 

【戦歿の友のみ若し霜柱】は霜柱によって、寒さが厳しい冬であると分かります。

 

また、「友のみ若し」の部分から友達だけ歳を取らずに、若いままであることが伺える作品です。霜柱を踏むと、こんな風にもろく崩れ去って行った友達のはかない命が思い出されます。

 

何も汚れを知れないまま、命じられるままに戦争に行き、亡くなってしまった友。

 

「私達は年月と共に歳を重ねて行くが、戦没した友は永遠に若いまま、記憶に刻またままだよ。」と、ここまで命長らえて生きてこられたことへの、友への申し訳なさも伝わって来ます。

 

さらに、生き残りの年月は年を重ねることで、精神的な清らかさが失われていくものです。

 

その一方で、10代や20代と若い年齢で亡くなった友は、純粋無垢なままと言えます。戦死した友人が、世の中の汚いことを一切知らずに、霜柱のように永遠に純粋な気持ちのまま、あの世に旅立ったんだなあという思いも伝わってきます。

 

作者「三橋敏雄」の生涯を簡単にご紹介!

 

三橋敏雄は、1920年東京都八王子生まれ、実家が絹織物業でした。

 

しかし、家業の業績不審により進学を断念し、働きながら現在の実践学園中学・高等学校の夜間部に進みます。卒業後は、召集により戦地に出向。戦後は運輸省所属の連絡線事務長の仕事に就きます。

 

1935年社内句会に参加したことが、俳句をはじめるきっかでした。

 

渡辺白泉の元で学び、新興俳句無季派の俳人として活躍。1967年現代俳句協会賞受賞、1989年蛇笏賞受賞しています。弟子には池田澄子、沼尻玲子がいます。その後も数多くの作品を残し、2001年に亡くなりました。

 

 

三橋敏雄のそのほかの俳句

 

  • かもめ来よ天金の書をひらくたび
  • いつせいに柱の燃ゆる都かな
  • 戦争と畳の上の団扇かな
  • 戦亡の友いまあがりくる夏の浜
  • 年下の友死ぬ夏のはじめかな
  • 手をあげて此世の友は来たりけり
  • 戦争戦災死者の蛍火と言ひつべし
  • 當日集合全國戦没者之生霊