日本の伝統文芸の一つである「俳句」。
俳句は時代に合わせて進化しながら現代へつながっていますが、明治時代に、江戸時代の俳諧や発句を俳句として改革したのが、あの有名な「正岡子規」です。
正岡子規は、松尾芭蕉や与謝蕪村と言った江戸時代の俳諧・発句・俳書をよく研究し、近代的な俳句の礎を築きました。
今回は、そんな正岡子規の数ある名句の中から「三千の俳句を閲し柿二つ」という句をご紹介します。
三千の俳句を閲し…柿二つ pic.twitter.com/UTH2XZWrsc
— レイキ (@Sanold_friend) October 16, 2014
本記事では、「三千の俳句を閲し柿二つ」の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「三千の俳句を閲し柿二つ」の季語や意味・俳句が詠まれた背景
三千の 俳句を閲し 柿二つ
(読み方:さんぜんの はいくをけみし かきふたつ)
この句の作者は「正岡子規」です。
子規は明治時代の俳句という言葉を定着させた偉大な俳人の一人です。
季語
この俳句の季語は「柿」、季節は「秋」です。
「柿」を秋の季語として定着させたのは正岡子規です。
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」(柿を食べていると、法隆寺の鐘の音が聞こえてきたことだ。)という有名な俳句がありますが、これも正岡子規の作品です。
正岡は柿が大好物で、柿をテーマにした句を数多く残しています。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「数多くの俳句を読み、よい句を選句して、一仕事終えて、柿を二つ食べることだ。」
という内容になります。
「三千の」というのは具体的な数値ではなく、「数多くの、たくさんの」と言ったくらいの意味です。
「閲(けみ)する」とは、見て確かめる・調べるという意味の言葉ですが、ここでは、「読者から寄せられた俳句を見て選句する」という意味となります。
この句が詠まれた背景
この句は、句集「俳句稿」に所収されている句で、明治30年(1897年)の作品です。
この句には前書きがあり・・・
「在日(あるひ) 夜にかけて俳句函(はいくばこ)の底を叩きて」
(意味:ある日、夜にかけて俳句の句稿が入っている箱の中身を見て選句の作業を行い、箱の底をたたいたところで)
とあります。
正岡子規は、明治25年(1895年)に日本新聞社に就職。翌年から俳句欄を設けて、投句を募っていました。また、明治30年(1890年)1月には、俳句雑誌「ホトトギス」が創刊され、この雑誌の募集俳句の選者もつとめていました。
寄せられた俳句の選句は、子規の大切な仕事のひとつでした。
その一方で、このころの子規の体調は思わしくありませんでした。明治28年(1898年)、日清戦争の従軍記者として中国に赴いた帰途に喀血をし、一時重体に陥ります。結核菌におかされ、肺結核になっていたのです。
その後、腰痛を発症。これも結核菌が脊椎に入り込んで病変を引き起こす「脊椎カリエス」という病気でした。
この句を作ったころ、子規は自力で立つこともおぼつかず、寝たり起きたりの生活でした。
寄せられた俳句を読みあらためて選句をすることもそのころの子規にとっては大変なことです。その大変な作業を成し遂げたときのことを詠んだ句なのです。
初案は「三千の俳句をしるし柿二つ」だったものを、推敲を重ねて「三千の俳句を閲し柿二つ」になったということです。
「三千の俳句を閲し柿二つ」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 句切れなし
- 「三千」と「二つ」の対比
- 「柿二つ」の省略法
になります。
句切れなし
一句の中で、意味上・リズム上大きく切れるところを「句切れ」と呼びます。
普通の文であれば句点「。」がつくところ、「かな」「や」「けり」などの切れ字がつくところがこれに該当します。
ただ、今回の句については句の途中で切れるところがありませんので「句切れなし」の句となります。
懸案の仕事を終え、充実感と安堵の混じったため息をふうっとつくように一息に詠まれた句であることが分かります。
「三千」と「二つ」の対比
対比とは、複数のものを並べてその共通点や相違点を比較し、それぞれの特性を際立たせて強調する表現技法のことです。
この句は、「三千」と「二つ」という数字を表す言葉が対比されています。
まず、大きい数字と小さい数字という点で対照的です。
そして、「三千」というのは具体的な量を表すというよりは「数多くの」という曖昧な意味なのに対し、「柿二つ」とは妙に現実的な数字となっています。
お互いの数字が対比されることで、それぞれの数字が際立たっています。
「柿二つ」の省略法
省略法とは、文章の中の言葉を省き、読み手に推測させることで余韻を残す表現技法です。
俳句は短い音数で内容を表現していかなければなりませんので、よく使われる技法です。
この句の「柿二つ」とは、「柿二つ食べた」ということですが、「食べた」と言う言葉は省略されています。
少ない言葉で、仕事を終えた充足感に浸りながら食べる柿のおいしさを表現しています。
「三千の俳句を閲し柿二つ」の鑑賞文
発句や俳諧と言った江戸の文芸から俳句と言う文学を確立しようと一身をささげた正岡子規らしさが詰まった句になっています。
山のような投句が来ることは、俳句の革新活動を進めていた子規にとっては喜ばしいことでしょう。
このときの病状は深刻であったのにも関わらず、一仕事終えて柿を二つ平らげる健啖家ぶりにも驚かされます。
子規は己をおかしている病が死に至るものであることをよく承知し、病と向き合って文字通り命を削って俳句を詠み、新聞や雑誌に記事を書いていました。
子規の文学は、子規自身の病と切り離して語ることはできません。晩年の子規は、病床にあって、病臥する者の視点からの俳句も多く詠みました。しかし、重く沈んだ暗い句を詠んでいたのではありません。
この句も、暗い句ではありません。大きな仕事を終えてご褒美のように柿を二つも平らげる、飄々とした作者の姿が目に浮かびます。
つややかなで鮮やかなオレンジ色、丸みを帯びた柿のフォルムもイメージされ、ユーモラスな雰囲気もあります。
子規は柿を愛した俳人で、柿を俳句に詠みこむことを始めたのは自分であるとも自負していました。
同じ年にはこのような句も詠んでいます。
「柿食ヒの俳句好みしと伝ふべし」
(意味:柿が好物だった男は俳句も好んでいたと言い伝えてほしい。)
亡くなる前年には、こうも詠みました。
「柿くふも 今年ばかりと 思ひけり」
(意味:柿を食べるのも、今年で最後だと思いつつ味わったことだ。)
正岡子規にとって、柿は格別な食べ物だったのです。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年(慶応3年)、現愛媛県松山市、旧松山藩士の家に生まれました。
本名は常規(つねのり)といいます。幼い頃から漢詩、戯作、書画などにも親しんで学びました。
松尾芭蕉や与謝蕪村の句や書を愛し、芸術性の高い文学としての近代的な俳句の確立をめざしました。若くして結核菌におかされながらも、文学に命を捧げました。
子規、とは本名ではなく雅号です。ホトトギスという鳥の異名なのですが、この鳥は血を吐いて鳴くといわれます。結核のため喀血を繰り返す自らをホトトギスに重ねていたのです。
正岡子規は1902年(明治35年)に34歳という若さで世を去りました。
正岡子規のそのほかの俳句
(前列右が正岡子規 出典:Wikipedia)
- 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし