俳句は五・七・五の十七音で表現する、世界でも短い詩の1つです。自然や季節ごとの出来事を表す季語を詠み込むことによって、多彩な風景や感情を表現できます。
今回は、与謝蕪村の有名な俳句の一つである「ほととぎす平安城を筋違に」をご紹介します。
ほととぎす平安城を筋違(すぢかひ)に(与謝蕪村) 【意味】ほととぎすが鋭い声で鳴きながら、平安京を斜め一直線に飛んでいった。
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本記事では、「ほととぎす平安城を筋違に」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「ほととぎす平安城を筋違に」の作者や季語・意味・詠まれた背景
ほととぎす平安城を筋違に
(読み方 :ほととぎす へいあんじょうを すじかいに)
この句の作者は、「与謝蕪村(よさぶそん)」です。
与謝蕪村は江戸中期に活躍した俳諧師です。松尾芭蕉や小林一茶とともに、「江戸時代の三大巨匠」と言われています。画家でもあり、俳句と絵画を織り交ぜた「俳画」の創始者です。鋭い観察眼を元に詠まれる俳句は写実的なものが多いのが特徴です。
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
季語
この句の季語は「ほととぎす」で、夏の季語です。
初夏に南方から渡ってくる渡り鳥で、夏を告げる鳥でした。昔から初音という初めて鳴く鳴き声を待つことが楽しみとされていて、奈良時代に成立した万葉集の頃から詠まれているほど親しまれている鳥です。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「ホトトギスが鳴きながら平安京の碁盤の目の街を斜めに飛んで行った。」
となります。
ホトトギスが鳴いているとは書かれていませんが、鳴き声が珍重される鳥であることや外見が目立つ鳥ではないことから、鳴き声でホトトギスであるとわかる構図です。
「平安城」は平安京のことで、794年に京都に置かれて長らく国政の中心地であった、碁盤の目状の区画が特徴の都のことを詠んでいます。碁盤の目という四角を基準とした都を、ホトトギスが筋違い、つまり斜めに横切って飛んで行ったという意味の句です。
(平安京の平安宮・大内裏付近 出典:Wikipedia)
この句が詠まれた背景
この句は蕪村句集に収録されていることから、1773年以前に詠まれた句だと言われています。また蕪村が京都に拠点を移したのが1758年頃のため、この期間に詠まれたと考えるのが妥当です。
江戸時代の京都は国政の中心地が江戸に、経済の中心地が大阪に映ったものの京都所司代や各藩の藩邸が置かれ、外交の場として栄えていました。現在でも平安時代以来の碁盤の目の区画はそのまま維持されていて、昔の息吹を伝えています。
「ほととぎす平安城を筋違に」の表現技法
初句切れ
句切れとは意味やリズムの切れ目のことです。多くは「や」「かな」「けり」などの詠嘆の終助詞や動詞などの言い切りの表現が含まれる句でどこが句切れか判断されます。
この句では「ほととぎす」と名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。ホトトギスを最初に持ち出すことによって、読む人にホトトギスの鳴き声と飛んでいく姿を強調する効果を持たせる表現です。
省略法
「筋違に」という言葉の後に「飛ぶ」という動詞が省略されています。
「筋違に」と途中で止めることによって、読者に飛んで行ったホトトギスを見送る余韻を持たせています。
また、ホトトギス特有の鳴き声の描写がないことから「鳴く」という動詞も省略されていると考えられており、詠まれた風景がどのようなものだったか読者に想像させる効果があります。
「ほととぎす平安城を筋違に」の鑑賞文
この句は、碁盤の目という縦横に走る道の上を斜めに飛んでいくホトトギスの姿を詠んだ一句です。
その視点は上空から斜め方向に飛んでいくのを見ていると考えられており、現在のように高い建物のない江戸時代においては作者の見事な想像力によって表現されたと言われています。
このホトトギスが飛んでいる時間帯ですが、多くの解説では夜でホトトギスの姿が見えない時間帯に鳴き声だけを残して斜めに飛んでいったと考えられています。また「見える」という動詞を省略することで、鳴き声だけを残して飛んでいったホトトギスを読者に伝えている一句です。
夜間のホトトギスの姿と斜めに飛んでいく様子を上空から見ているという、どちらも見えないものを表現しているという点で、与謝蕪村の鋭い観察眼と豊かな想像力を表す句に仕上がっています。
作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
与謝蕪村は1716年に現在の大阪府大阪市毛馬町付近に生まれました。20歳の頃に江戸へ下り、早野巴人に指示して徘徊を学びます。江戸にて徘徊で身を立てようとしますが、巴人の死去に伴い尊敬する松尾芭蕉に倣って『おくのほそ道』の足跡を辿り、東北地方を周遊しました。
この周遊の最中には画家としても活動を始め、各地に蕪村が宿代代わりに残した絵画が残されているのが特徴です。「蕪村」という号もこの頃に使用し始めていて、1744年に書かれた『歳旦帳』という本で確認されています。その後に天橋立に近い場所に拠点を移し、同地の俳人と交流を深めました。
1758年頃に拠点を京都に移し、「与謝」を名乗るようになります。画家と俳人の師である宗匠として活動し、蕪村の創作活動のピークを迎えました。現在の香川県でも活動が確認されていて、数年間画家や俳人の師としての活動をしていたようです。後に1784年に京都の自宅で68歳で亡くなりました。
与謝蕪村のそのほかの俳句
(与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia)
- 夕立や草葉をつかむむら雀
- 寒月や門なき寺の天高し
- 菜の花や月は東に日は西に
- 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
- 夏河を越すうれしさよ手に草履
- 斧入れて香におどろくや冬立木
- 五月雨や大河を前に家二軒
- うつくしや野分のあとのとうがらし
- 山は暮れて野は黄昏の芒かな
- 四五人に月落ちかかるをどりかな
- ゆく春やおもたき琵琶の抱心
- 花いばら故郷の路に似たるかな
- 笛の音に波もよりくる須磨の秋
- 涼しさや鐘をはなるゝかねの声
- 稲妻や波もてゆへる秋津しま
- 不二ひとつうづみのこして若葉かな
- 御火焚や霜うつくしき京の町
- 古庭に茶筌花さく椿かな
- ちりて後おもかげにたつぼたん哉
- あま酒の地獄もちかし箱根山