【俳句と俳諧の違い】簡単にわかりやすく解説!ルールや特徴・歴史など

 

5・75の定型文を基本とした俳句は「知ってる!」という方も多いと思います。

 

しかし、俳句と似たような言葉として、短歌や川柳、俳諧といったものもあります。

 

どれも学校の授業で習ったような気がするけれど、「それぞれ何が違うのか、わからない!」と言う方も多いのではないでしょうか?

 

 

そこで今回は、特に「俳諧」にスポットを当てて、「俳句」と「俳諧」の違いについて簡単にわかりやすく解説していきます。

 

リス先生
ぜひ参考にしてみてね!

俳句と俳諧の違い

 

これらの違い一言で言うと、「俳諧は俳句の元となったもの」です。

 

昔、連歌と呼ばれる貴族の遊びだった文芸が、滑稽的な表現となり、江戸時代に一般庶民に浸透したものが「俳諧」と呼ばれるようになりました。

 

そして後に俳諧のはじめの一句という意味で「発句」と呼ばれるようになり、松岡子規らが短詩文学の革新を唱えたことで、発句の新しい名称として「俳句」となった経緯があります。

 

以下に、俳句と俳諧の特徴やルールの違いをまとめました。

 


ー形式的な違いー


・俳句は一句で完結するが、俳諧は連歌の形式で上の句と下の句を次々に繋げていく

(※連歌とは、五・七・五に他の人が七・七をつけ、さらに他の人が五・七・五を付け加えといった様子で続けていく形式)

・連歌から派生したのが俳諧、俳諧から派生したのが俳句

・俳句は1人で読むが、俳諧は2人以上で読み合う

・俳句は五・七・五の十七音という定型文があるが、俳諧はさまざまな形式がある(発句や連句、漢詩形式の和詩や仮名詩なども含まれる)

ー内容的な違いー


・俳句は五・七・五の十七音で考え抜いた内容だが、俳諧は自由な形式で即興的な内容

・俳句は季語を入れることによって季節感を大切にしているが、俳諧は言葉遊び的な滑稽さがある

 

以上の「形式的な違い」と「内容的な違い」が俳句と俳諧との大きな違いです。

 

しかしながら、俳句の元が俳諧となっている経緯もあり、両者は切っても切れない関係であることは間違いないでしょう。

 

意外と知らない!俳句・俳諧の誕生の歴史

俳諧の誕生の歴史

俳諧が誕生したのは、平安時代のことです。

 

古代の時代から人々は自分たちの心情や自然の美しさを表現するために、和歌を読んできました。

 

俳諧の原点は、日本で最初の勅撰和歌集「古今和歌集」巻1958首の和歌が「俳諧歌」として収録されたことにあります。

 

また、平安末期には藤原清輔が歌学書「奥義抄」で・・・

 

【 俳諧の本質は、その場その場で歌を詠む即興性やその才能にあって、連歌が正しい系統なのであれば、その逆を大事にすることで、自然や人間の真実に迫ろうとする文芸だ 】

 

としました。

 

この考えは江戸時代まで続き、江戸時代には松永貞徳(まつなが ていとくを中心とする「貞門派」という一門が俳諧を全国で行いました。

 

松永貞徳 (出典:Wikipedia)

 

俳句仙人
また、俳諧という滑稽さを笑いに変える流派として「談林派」もあり、松尾芭蕉はどちらの流派にも属した上でわび・さびやかるみを重んじる蕉門風を確立させ、現在の俳句に繋がっていきます。

 

俳句の誕生の歴史

貞門が行う俳諧は平安時代から続く、言葉遊び的な滑稽さを中心としていたため、すでに新鮮みに欠けていたのです。

 

そこで登場したのが「松尾芭蕉(まつおばしょう)」

 

松尾芭蕉 (出典:Wikipedia)

 

彼が俳諧の読み方を和歌や連歌と同じく、感情を表す優美な文芸としての地位を高めました。

 

このように連歌が元になっている俳諧ですが、江戸時代末期から明治時代にかけて、連歌の1番はじめに読まれる句(発句)のみが独立するようになってきます。

 

発句には必ず季語と切れ字を入れなければならないという決まりがありますので、これが俳句となりました。

 

最後に、俳句という言葉自体は明治時代に正岡子規によって後から付けられたもので、俳諧の連歌から派生した発句のみの文芸を「俳句」と名付けられたのです。

 

正岡子規 (出典:Wikipedia)

 

俳句仙人
まとめると…【連歌→俳諧→発句→俳句】と、呼ばれ方や形式が時代とともに少しずつ変化していったことがわかったと思います。

 

知っておきたい有名俳句【5選】

 

今ここでは筆者おすすめの有名俳句5つご紹介します。

 

俳句仙人
松島というあまりの絶景を前に、作者の言葉が出てこない様子が感じとれます。この句のポイントは、季語が無いということです。このように季節感を持たない俳句のことを無季俳句と言います。個人的に筆者は松島の近くで育ったこともあり、この句には思い入れがあります。陸地から臨む雄大な海には、大小さまざまな島が点在していて、日本らしい風情豊かな景色が広がります。その景色を一眼見ると、「あぁ」と言葉にならない感動を覚える気持ちはわかりますね。

 

俳句仙人
この句は朝顔や水汲みといった何気ない日常風景を描いたものですが、その背景には彼女の自然や植物を思いやる心の美しさが読み取れます。この句のポイントは季語は朝顔なのですが、季節は秋だということです。朝顔というと夏をイメージする方が多いかと思いますが、旧暦の8月=立秋に区分されます。

俳句仙人
蝉の鳴き声は通常であればうるさいと感じがちですが、松尾芭蕉は「閑かさや」と感じています。理由は、静かな山奥でこの句を読んでいるからです。空間の静かさだけでなく、芭蕉が己の心の中を見つめ、無の境地に陥っていることがわかりますね。また、季語として使われている蝉は、その後の実地調査によってニイニイゼミをモデルにしていることがわかっています。

俳句仙人
この句が読まれたのは1939年のことで、中村草田男の長女が1937年に誕生していますので、この句のモデルは長女だったのかもしれません。

俳句仙人
季節感をさりげなく生活に取り入れている様子が伺えます。それに、初鰹は現在の価格に直すと30万円以上もする高価な食べ物なので、本当に嬉しいと感じているのでしょう。

 

以上、俳句と俳諧の違いについてでした!

 

【連歌→俳諧→発句→俳句】と呼ばれ方や形式が、時代とともに変わってきたということがわかったと思います。

 

現代では俳句ばかりが有名ですが、是非この機会に俳句のルーツである俳諧にも目を向けてみてはいかがでしょうか。

 

【もっと深く知る】松尾芭蕉と2つの俳諧の流派

松尾芭蕉 (出典:Wikipedia)

 

先ほども少し触れましたが、現代まで続く俳句の祖とされる松尾芭蕉は、俳諧の「貞門派」と「談林派」を学んでいました。

 

俳句仙人
この2つは芭蕉登場以前に俳諧の形式として流行していたものです。

 

貞門派

「貞門派」とは、江戸時代初期に活躍した俳諧師である松永貞徳を祖とする一門です。連歌や和歌、歌学を修めていたため、貞門派は古典の素養が必要でした。

 

芭蕉は最初に、貞門派に属する北村季吟に師事しています。さまざまな注釈書を出版することで、庶民が古典へ触れるハードルを下げた一門でもあります。

 

漢詩を元にした代表的な俳諧として・・・

「雪月花 一度に見する 卯木(うつぎ)かな」

(意味卯木は、雪のような白い花を咲かせ、うつぎという言葉のとおりに月も一度に見せてくれる。)

 

といった言葉遊びの物もあります。「雪月花」は漢詩由来の言葉で、漢詩の要素も取り入れている芭蕉以降の俳人たちにも強い影響があった事が伺える句です。

 

また、古典を元にした下記の俳諧があります。

 

「花よりも 団子やありて 帰る雁」

(意味:花よりも団子を目当てに雁が帰っていく。)

 

これは『古今集』に収録されている「伊勢」という歌人の下記の歌を元にしています。

「春霞 たつを見すてて 行く鴈は 花なき里に 住みやならへる」

(意味春霞が立ち花が咲いたのに、見捨てるように飛び去る雁は花の咲いていない里に住み慣れているのだろうか。)

俳句仙人
「花を見ずに帰る雁」は古代から続くモチーフだったようです。

 

談林派

もう1つの「談林派」は、西山宗因を祖として伝統的な和歌を元に自由で笑いに変える技法を元にしています。

 

松尾芭蕉が「桃青」を名乗っていた頃は談林派が貞門派よりも主流になり、和歌の伝統よりも笑いを重視する俳諧文化の過渡期でした。

 

談林派は「軽口」という優雅な古典から俗世へ転じる意外性からくる笑いを重視しています。

 

談林派でもあった井原西鶴は、下記の句を詠んでいます。

 

「軽口に まかせてなけよ ほととぎす」

(意味ホトトギスよ、軽妙に鳴いてくれ)

 

この句は師である西山宗因に談林派の中心である「軽口」を読み込みながら「ホトトギス」という季題を詠んだことを絶賛されています。

 

また、西山宗因の有名な俳諧として、下記が挙げられます。

「阿蘭陀(おらんだ)の 文字か横たふ 天つ雁」

(意味あの空を飛んでいる雁はまるでオランダの文字のように横たわっている。)

 

「雁」という伝統的な議題を読みつつ、オランダ文字なのだろうかと笑いへ転じさせる手法が見事です。

 

俳句仙人
談林派から独自の作風を作り出した松尾芭蕉は、西山宗因に対して「宗因はこの道の中興開山なり」と評しています。

 

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