【冬蜂の死にどころなく歩きけり】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文など徹底解説!!

 

世代を超えて受け継がれる伝統文芸の一つ「俳句」。

 

最近ではテレビ番組でも取り上げられ、趣味として俳句を楽しむ人が増えてきました。

 

名句と称される俳句は数多く残されていますが、今回は村上鬼城の代表作【冬蜂の死にどころなく歩きけり】という句をご紹介します。

 

 

「死」という文字に一瞬どきっとしてしまいますが、この句に込められた心情とはどのようなものだったのでしょうか。

 

本記事では、「冬蜂の死にどころなく歩きけり」の季語や意味・表現技法・鑑賞文など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」の季語・意味・詠まれた背景

 

冬蜂の 死にどころなく 歩きけり

(読み方:ふゆばちの しにどころなく あるきけり)

 

この句の作者は「村上鬼城(むらかみきじょう)」です。

 

鬼城は、明治から昭和にかけて活躍した俳人です。重度の聴覚障害者であり、また困窮した生活に苦しみながら、自らの苦難の人生を句に詠みこみました。

 

人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、人間の持つ生きる苦しみをしっかりと見据えた「境涯の俳人」といわれています。

 

季語

この句に含まれている季語は「冬蜂」で、季節は「冬」を表します。

 

蜂といえば、蜜を求め花に集まる姿を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。「蜂」単体であれば、「春」を表す季語として用いられます。

 

しかし、「冬蜂」となると「冬の蜂」「凍蜂」とともに「冬」の季語となります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「死期が近づいている冬の蜂が、自分の死に場所を探しているかのように、弱々しく地面を歩いている」

 

という意味になります。

 

冬の間、受精した雌の蜂は越冬することができますが、雄の蜂は死に絶えてしまうことが多く、生き残っていても動作が鈍くなっていきます。

 

この句で詠まれているのは、かろうじて生き延びるも、もはや飛ぶことも叶わず弱々しい姿を見せる雄の蜂です。少し前までは元気に飛んでいただけに、ひときわ哀れさを感じます。

 

この句が詠まれた背景

この句は大正4年(1915年)頃に詠まれ、「鬼城句集」(大正6年)に所収されています。

 

詠みこまれた情景を解釈するには、絶えず生きる苦しみと向き合ってきた鬼城の人生を知ることが必要です。

 

当初は軍人を志し上京した鬼城ですが、18歳の突然耳を患い断念せざるおえませんでした。その後、法学を学び司法代書人(現在の司法書士)となった鬼城は、高い知能を持ちながら地方裁判所でしがない代書人として暮らします。

 

二男八女とたくさんの子どもを儲けるも、家族を養わなければならない生活に悩みながら、苦しい生活を続けていました。

 

自らの置かれた不遇な環境と常に向き合い続けてきた鬼城には、冬の陽だまりの中よたよたと歩いている蜂がいっそう不憫に思えたのでしょう。

 

目の前で命尽きようとしている小さな生き物に、鬼城自身の寂しい境涯を投影しているとも詠みとれます。

 

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」の表現技法

「歩きけり」の切れ字「けり」(句切れなし)

切れ字とは「かな」「けり」「や」などの語で、句の切れ目に用いられ作者の感動の中心を表します。

 

今回の句では「歩きけり」に、詠嘆を表す切れ字「けり」がついていますので、「歩いていることだなぁ・・・」と訳されます。

 

また、切れ字が含まれるところや、句の意味や内容での切れ目(※句点「。」がつく場所)を「句切れ」といいます。今回の句については、下句に句切れついているため、「句切れなし」の句となります。

 

文末に感動の中心をもってくることで、冬の蜂の弱々しい動きが強調されています。

 

「死にどころなく歩きけり」の擬人法

擬人法とは、植物や動物・自然などをまるで人がしたことのように表す比喩表現の一種です。

 

例えば、「花が笑う」「光が舞う」「風のささやき」などといったものがあります。

 

この句に詠まれている蜂は、ただ地面を力なく歩いているに過ぎません。しかし鬼城の目には、冬蜂があたかも自らの余命を悟っているかのように映ったのでしょう。

 

「死にどころなく歩きけり」と擬人法を用いることで、さまよう蜂の歩みがまるで死に場所を探し歩き続けているようだと詠みました。

 

「冬蜂の死にどころなく歩きけり」の鑑賞文

 

【冬蜂の死にどころなく歩きけり】は「苦しさこそが人生だ」と語っていた鬼城の代表作ともいえる句です。

 

突然煩った耳の病で軍人の夢に破れた鬼城は、思うような仕事にも就けず、たくさんの子女を抱えて生活は厳しさを増す一方でした。

 

そんな時に目に飛び込んできた一匹の冬の蜂。夏までは兵士として勇ましく飛び回っていたはずの雄の蜂が、冬を迎え今となっては飛ぶ力も尽き、ただ地面を這うことしかできない。

 

そんなさびしくも痛ましい姿と自分の境遇と重なるようで、なおさらやりきれない思いを感じたことでしょう。

 

蜂の有様が「死に場所を求めあぐねているかのように」感じた鬼城の心情や人生観に心打たれる名句です。

 

作者「村上鬼城」の生涯を簡単にご紹介!

村上鬼城(18651938年)は、明治・大正・昭和に活躍した俳人です。江戸の生まれで本名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)といいます。

 

 

群馬県高崎市の裁判所司法代書人となった鬼城は、その傍らで俳句に親しみます。正岡子規の句に惹かれた鬼城は、幾度となく教えを請い、俳句雑誌『ホトトギス』に俳句の投稿をしています。

 

私生活面では8人の娘と2人の息子を儲け子宝にも恵まれましたが、家族を養うため生活は絶えず貧窮していました。そのためか鬼城の句は、自らの困窮生活や耳が不自由なことへの弱者や虐げられた者への哀れみを詠ったものが多くあります。

 

雑誌投稿で俳句を学ぶ鬼城でしたが、当時その作品は高く評価されることはありませんでした。しかし子規の死後、『ホトトギス』主宰である高浜虚子に見出され、自身の作品が入選するまでになります。

 

虚子は「耳が聞こえないことで君の主観が強くなり、他の及ばないところがあるのは、その耳のおかげだ」と励まし、これに鬼城はいたく感動したそうです。以後は『ホトトギス』の代表的な俳人となり、同誌の巻頭を飾るまでに認められました。

 

独特の倫理観で哀れみを詠んだ鬼城ですが、74歳のころ胃がんのため自宅で亡くなります。苦しみぬいた生涯に幕を閉じました。

 

村上鬼城のそのほかの俳句

 

  • 闘鶏の眼つぶれて飼われけり
  • 鷹のつらきびしく老いて哀れなり
  • 生きかはり死にかはりして打つ田かな
  • ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
  • 蛤に雀の斑(ふ)あり哀れかな
  • 小春日や石を噛みいる赤蜻蛉