
赤い椿白い椿と落ちにけり・・・。
こちら句を一度読めば、考え込まずとも赤と白の鮮やかな色彩が目に浮かぶ、印象的な俳句です。
国語の教科書にもくりかえし収録されていますので、目にしたことのある方も多いでしょう。
見して解釈に難しそうなところのない句ですが、実は知れば知るほど奥が深い味わいのある一句なのです。
本記事では、『赤い椿白い椿と落ちにけり』の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきます。
赤い椿白い椿と落ちにけり
河東碧梧桐#河東碧梧桐と令和を迎えよう pic.twitter.com/1CfoItqQ74— 地獄極楽太夫 (@gokuraku_zigoku) April 30, 2019

ぜひ参考にしてみてください。
目次
「赤い椿白い椿と落ちにけり」の作者や季語・意味・詠まれた背景

赤い椿 白い椿と 落ちにけり
(読み方:あかいつばき しろいつばきと おちにけり)
こちらの句は、明治期から昭和初期にかけて活躍した俳人、「河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)」の代表的な句のひとつです。
この河東碧梧桐かわいい。 pic.twitter.com/5Hw6SplyYW
— ベク成 (@bekunari) February 14, 2016
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「赤い花を咲かせる椿の木が赤い花を、白い花を咲かせる椿の木が白い花を落としている。」
といった意味です。
季語
こちらの俳句の季語は「椿(春の季語)」、有季定型句です。
椿はつやつやした丸い葉をもつ常緑樹で、早春に花の盛りを迎える花木です。
椿の花の色は、鮮やかな赤・澄んだ白・優しいピンク色など何種類かあります。
椿は黄色い花蕊を花びらが取り囲み、風も冷たく花の少ない早春にパッと人目をひく華やかな花を咲かせます。

花びらが一枚一枚散り落ちるのではなく、花ごとぽとりと落ちるのも特徴です。
俳句が詠まれた背景
明治29年3月、新聞「日本」紙上で「白い椿赤い椿と落ちにけり」として発表されたものが初出です。
もともとは、同年2月末に「春季雑詠」というテーマで、子規をはじめとする当時の俳人らに評を求めた一連の句の中のひとつであったということです。
この句が発表された同年、作者の師であり、近代における短型詩の祖でもある正岡子規が同じく「日本」紙上にこの句の句評を寄せたことから評判となりました。
この時子規は「赤い椿白い椿と落ちにけり」という句として紹介し、「赤い椿」を初句においた形が広く膾炙するようになりました。
しかし、河東碧梧桐は本来は「白い椿赤い椿と落ちにけり」と、初句に「白い椿」を詠みこんでいました。

正岡子規はこの句について、言葉で表されているものは白い花と赤い花のみであり、椿の木の生い茂る様子やその椿の木がどこに生えているのかといったことが触れられていなくとも、その情景を眼前に思い描くことのできる優れた句であると評価しています。
「赤い椿白い椿と落ちにけり」の表現技法

この句で使われている表現技法は、「初句が六字で字余り」「落ちにけりの切れ字「けり」」の2つあります。
初句が六字で字余り
初句の「あかいつばき」は六字。定型俳句は五・七・五が基本で、それよりも字数が多いと字余りと言います。
リズムを壊すことで読む人の注意をひき、印象を強める働きがあります。

この句では「赤」という鮮やかな色彩を印象付けようとしているといえるでしょう。
「落ちにけり」の切れ字「けり」
切れ字とは、作者の詠嘆や、感動の気持ちを表す言葉です。
「や」、「かな」、「けり」などが切れ字の代表的なものです。「…であることよ。…であるなあ。」というくらいの意味ですが、この切れ字に注目することで作者が何に感動してこの句を作ったのか読み解いていくことができます。
この句の切れ字は「落ちにけり」の「けり」。近代以降の俳句でよく用いられる「や」、「かな」、「けり」の切れ字の中では、もっとも強い言い切りの形です。
落ちた椿、または椿の落ちる様子に作者は強い感興を覚え、この句を発するにいたったのだといえます。

また、切れ字が最後についているので「句切れなし」です。
「赤い椿白い椿と落ちにけり」の解釈と鑑賞

この句は、以下の2つの解釈に分かれるといわれます。
「すでに地面に落下した赤と白の椿の花を静物画のようにとらえて詠んだ句である」
「赤い花に続いて白い花がというように、次々と椿の花が落ちていく動きを動画のように詠んだ句である」
また、河東碧梧桐と並んで正岡子規の高弟といわれた高浜虚子は、「落ちにけり」という言葉に注目し、「ぽたぽたとあの大きな花が重なり合って重げに地上に落ちている光景」を思い浮かべ、これが「散りにけり」という言葉であれば椿らしさが失われると述べています。

この句を静止画として解釈するにしろ、動画として解釈するにしろ、春まだ浅い冴え冴えとした空気の中の椿の花の鮮やかなイメージが印象的な一句です。
河東碧梧桐の俳句の作風の変化


河東碧梧桐は、【客観写生→新傾向俳句→自由律俳句】と作風が変化していきます。ここではその作風の変化の流れを解説していきます。
客観写生の時代
作者の俳句は、師である正岡子規が提唱した「写生」の理念を忠実に守ることから始まりました。
この「赤い椿白い椿と落ちにけり」は、その典型で、この句は紅白の椿が地に落ちている情景を、あたかも絵画のように鮮やかに切り取っています。
五七五の定型と「椿」という春の季語を守りながら、色彩の対比によって視覚的な印象を強く打ち出す手法に、子規の教えである客観写生の影響が色濃く見て取れます。

当時の作者は、このように情景をありのままに捉え、言葉で再現することに努めていたのです。
新傾向俳句の時代
しかし、1902年に子規が没すると作者の句風は大きな変化を迎えます。新聞『日本』の俳句欄選者を引き継いだ作者は、高浜虚子が「ホトトギス」で伝統的な俳句を守ろうとしたのとは対照的に、「新傾向俳句」と呼ばれる運動を主導し始めました。
この時期から、五七五の定型からの逸脱が試みられるようになります。
その変化を象徴する一句が、「曳かれる牛が辻でずつと見廻した秋空だ」です。この句は、上五が七音になるなど、従来の音数律から大きく外れています。
どこかへ向かう牛が、道の交差点でふと足を止めて秋の空を見上げた一瞬を捉えたこの句は、物語性を感じさせる散文的な表現です。
定型を崩すことで、牛の動作やその場の情景にリアリティを与え、読者の感情に訴えかける効果を生み出していると考えられます。

これは、客観写生から一歩進み、作者の主観や感情の動きを句に込める試みであり、後の自由律への大きな布石となりました。
自由律俳句の時代
その後の作者の俳句は、定型や季語という制約から完全に解き放たれ、自らの生活実感や内面を率直に表現する自由律俳句の時代へと入っていきます。
例えば、「一軒家も過ぎ落葉する風のままに行く」や「正月の日記どうしても五行で足るのであつて」といった句がこの時期の作風をよく表しています。
これらの句には、もはや初期の写実的な句に見られたような情景を美的に切り取ろうとする意識は見られません。
代わりに、自身の体験や感情の律動をそのまま言葉に移し替えようとする姿勢が貫かれているのです。
このように、河東碧梧桐の句風は子規門下での客観写生に始まる定型俳句から、定型を打破しようとした新傾向俳句を経て、最終的には内面のリズムを重視する自由律俳句へと大きく変貌を遂げていきます。

河東碧梧桐の俳句を詠むときは、作者がどのような句風で俳句を作っていたのか理解する必要がありますね。
作者「河東碧梧桐」の生涯を簡単に紹介!
この句の作者、河東碧梧桐は1873年(明治6年)2月26日 、愛媛県に生まれ、名は秉五郎(へいごろう)と言いました。1937年(昭和12年)2月1日)に没しました。
赤い椿 白い椿と 落ちにけり..
昭和12年(1937年)の2月1日は 河東碧梧桐が腸チフスから敗血症となって死んだ日(享年63)。。 pic.twitter.com/xatF2pCu2d— 【 緊縛方 】真田縄幸【 GAG方 】 (@EsemShibaristJr) February 1, 2017
明治期から昭和初期にかけて活躍した俳人であり、随筆家です。
近代の短歌、俳句といった文学の礎を築いた正岡子規の弟子としても知られています
師である正岡子規や、河東碧梧桐ともに子規の弟子の双璧と並び称された高浜虚子らと俳句革新運動を推進した一人でもありました。
正岡子規が34歳の若さで夭逝した後、新傾向運動を展開していくこととなります。
そして、より自由で新しい作風を追い求め、自由律俳句を生み出すことにもなりました。

享年は六五才。ふるさと愛媛県松山市と東京都台東区の寺に分骨されて眠っています。
河東碧梧桐のそのほかの俳句

(碧梧桐の碑 出典:Wikipedia)
- 春浅き水を渡るや鷺一つ
- 一軒家も過ぎ落葉する風のままに行く
- 相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり
- 雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止む
- ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く
- 曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ






