五・七・五の十七音で、作者の心情や見た風景を綴り詠む「俳句」。
季語を使って作られる俳句は、短い言葉の中で、作者の心情やその時代の自然の姿までもを感じることができます。
今回は、河東碧梧桐の有名な句の一つ「春浅き水を渡るや鷺一つ」という句をご紹介します。
そいえば、この前、書あそびで書いたやつ。
春浅き 水を渉るや 鷺一つ pic.twitter.com/5txUE2IAlY
— くまぽろ (@kuma_poro) February 8, 2020
本記事では、「春浅き水を渡るや鷺一つ」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「春浅き水を渡るや鷺一つ」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
春浅き 水を渡る(=渉る)や 鷺一つ
(読み方:はるあさき みずをわたるや さぎひとつ)
この句の作者は、「河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)」です。
明治から昭和初期を生きた俳人で、正岡子規の門下生です。高浜虚子と並び称され、五・七・五に捉われない「新傾向俳句」を推し進めました。
季語
この句の季語は「春浅き」、季節は「春」です。
「春浅き」は「早春」とほぼ同じ意味です。二月頃は春ではありますが、まだまだ冬のような寒さが残っています。
「春浅き」の季語は江戸時代にはなく、明治になって正岡子規によって季語として定着していった比較的新しい言葉です。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「春まだ浅い寒々とした景色の中、一羽の鷺がえさを求めているのか、水辺を一足一足歩いている。」
という意味です。
「水を渡るや」とは、浅い水のあるところを一足一足歩いて渡るようすのことです。
鷺は、一般的に白鷺と言われるコサギやチュウサギを指すことが多いです。形は鶴に似ていますが、やや小さめです。田んぼや沼沢などの水辺を渡って、小魚などのえさを得て生活しています。
早春の雪解けの水で水量が多く、やや濁った川を、細い足の鷺がたった一羽で歩いて渡っていく情景を詠んでいます。
この句が詠まれた背景
この句は、正岡子規編纂による『春夏秋冬』春之部(明治34年)という本に収録されています。
この本には明治20年代末以降の句が集められているため、碧梧桐が20代くらいの時に詠まれた句だと考えられます。
この頃の河東碧梧桐は正岡子規に師事し、有季定型の伝統的な写生の句を詠んでいました。
子規は碧梧桐の作風を「印象明瞭であり、あたかも写生的絵画の小幅を見る」と評しました。
碧梧桐はいま感じている季節感を「春浅き」という季語を使い、鶴でも白鳥でもなく、いま目に映った鷺の姿をそのまま詠んだのでしょう。
「春浅き水を渡るや鷺一つ」の表現技法
「水を渡るや」の「や」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
この句は「水を渡るや」の「や」が切れ字にあたります。
俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたります。
「や」で句の切れ目を強調することで、春がまだ浅く冷たい水の中を渡っているということを強調しています。
また、五・七・五の五の句、つまり二句に句の切れ目があることから、「二句切れ」となります。
「鷺一つ」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。
体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
体言は主に名詞を指しますが、日本語では数詞も体言に含まれます。
「鷺一つ」と、言い切ることで、「一羽」というより語尾も良く、鷺がたった一羽だけ歩いているという鷺の存在を強調しています。
「春浅き水を渡るや鷺一つ」の鑑賞文
「春浅き」という季語は、「早春」という言葉よりやわらかく季節を表現しています。
もうすぐ冬は終わるけれど、まだまだ寒い春のはじめということがよく伝わり、寒々とした水辺の風景が頭に浮かびます。
その中をたった一羽の鷺が歩く姿は、風景を詠み綴ろうとしている人以外には、何気ない日常かもしれません。
子規の下で写生の句を詠み続けていた碧梧桐には、その自然の一場面が目に留まり、この句ができたのかもしれません。
鷺にとっては当たり前の、一足一足ゆっくりと片足ずつ上げ渡って歩くしぐさが、まだ春になりきらない季節の水の冷たさを感じ、鷺がそろりそろりと歩いているように碧梧桐の目に映ったのでしょう。
作者「河東碧梧桐」の生涯を簡単にご紹介!
赤い椿 白い椿と 落ちにけり..
昭和12年(1937年)の2月1日は 河東碧梧桐が腸チフスから敗血症となって死んだ日(享年63)。。 pic.twitter.com/xatF2pCu2d— 【 緊縛方 】真田縄幸【 GAG方 】 (@EsemShibaristJr) February 1, 2017
河東碧梧桐は、明治6年(1873年)愛媛県温泉郷千船町、現在の愛媛県松山市千舟町に生まれました。
本名は秉五郎(へいごろう)といい、父は藩校の教授で、その家の五男でした。
明治22年、松山に帰省していた正岡子規を知り、翌年、発句集を作って子規の添削を受け、上京を勧められました。高浜虚子とともに子規の俳句革新運動に参加し、子規門の双璧となりました。
子規が亡くなった後、明治36年には子規の後を継ぎ、「日本俳句」の選者となりました。
この頃、句風を巡って虚子と論争し、以後対立が激しくなります。
虚子は「伝統的俳句」を作るのに対し、碧梧桐は「新傾向の俳句(個性の発揮、現実世界への近接を求める)」を推し進め、さらには「自由律俳句」へと進んでいきました。
新傾向の俳句を広めるため、明治39年に全国大旅行を始め、3年半をかけて北海道から沖縄まで歩きました。
また、一句に中心点を置いて「想化」するのではなく、自然の現象そのものに接近して詠むという「無中心論」を唱えました。
昭和8年に還暦祝賀会で俳壇の引退を表明しました。
その後は、せんべい屋を開業したりもしましたが、晩年は『子規を語る』などを執筆し、昭和12年に64歳で亡くなりました。
河東碧梧桐のそのほかの俳句
(碧梧桐の碑 出典:Wikipedia)
- 赤い椿白い椿と落ちにけり
- 一軒家も過ぎ落葉する風のままに行く
- 相撲乗せし便船のなど時化(しけ)となり
- 雪チラチラ岩手颪(おろし)にならで止む
- ミモーザを活けて一日留守にしたベットの白く
- 曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ