「俳句」は、身近な出来事を五・七・五の十七音で詠む定型詩です。
季語や、心情・風景を詠みこみ、思いを伝えることも出来ます。
今回は、有名句の一つ「たましひのたとへば秋のほたる哉」という句をご紹介します。
蛇笏忌,山廬忌
俳人・飯田蛇笏の1962(昭和37)年10月3日の忌日。
たましひのたとへば秋のほたるかな pic.twitter.com/EPFBEhP1xc
— 久延毘古⛩陶 皇紀2681年令和三年長月 (@amtr1117) October 2, 2019
本記事では、「たましひのたとへば秋のほたる哉」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「たましひのたとへば秋のほたる哉」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
たましひの たとへば秋の ほたる哉
(読み方 : たましいのたとえばあきのほたるかな)
※哉がひらがな表記の場合もあります
この句の作者は、「飯田蛇笏(いいだだこつ)」です。
高浜虚子に師事し、大正時代には「ホトトギス」で代表作家として活躍しました。
季語
この句の季語は「秋のほたる」、季節は「秋」です。
秋のほたるは、残り蛍、病蛍とも言われます。秋風の吹く頃に、弱々しい光を放って飛ぶ蛍は、季節外れのわびしさを感じさせます。
ちなみに「ほたる」のみだと、夏の季語になります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「亡くなった人の魂が、例えてみれば、まるで秋のほたるのように薄く青白い光を放って闇に消えていこうとしている」
という意味です。
秋のほたるの放つ、弱々しく青白い光を亡くなった方の魂に例えています。
この句が詠まれた背景
この句は、1932年に刊行された初の句集「山蘆集」に収められています。
句の前書きには、「芥川龍之介氏長逝を深悼す」と書かれています。「芥川龍之介氏が亡くなられたことを深く悲しみ、哀悼の意を表します」という意味です。
2人の関係がわかる、芥川龍之介の「飯田蛇笏」という短いエッセイがあります。
簡単に内容をまとめると・・・
「夏目漱石先生の所に行った際に、赤木桁平が蛇笏の句を非常に褒めていた。自分は、特にうまいとも思わなかった。「ホトトギス」でも高浜虚子先生が敬意を表していたが、私の蛇笏への評価はネガティブなものだった。長い間、蛇笏のことは忘れていた。
自分が俳句を作るようになって「死病得て爪美しき火桶かな」という蛇笏の句を読んでから評価が一変した。そこから、蛇笏のことを注意してみるようにしていた。蛇笏の悪口なんかを聞いても、さらに蛇笏のことを頼もしいと思った。
何年か経って手紙のやり取りをするようになった。今は、もう蛇笏ではない。飯田蛇笏君と手紙のやり取りをしている。私の作った俳句を、先輩の蛇笏君が読んで憫笑してくれれば辛甚である。」
芥川龍之介は、1927年7月24日に自殺します。
龍之介を偲んだこの句が、亡くなった夏ではなく初秋に詠まれていることから、四十九日の法要にあわせて詠んだのではないかとも言われています。
「たましひのたとへば秋のほたる哉」の表現技法
「ほたる哉」の「哉」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
「かな(哉)」は三句(五・七・五の最後の5文字)で使われ、詠嘆の表現や、感動を表す言葉です。
また、意味やリズムの切れめを句切れといいます。この句では、三句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれるため、句切れなしとなります。
見立ての表現
見立てとは、あるものを別の何かへ例えることです。比喩ともいわれます。
明らかに比喩だとわかるように「たとえば」「~のごとし」「~のように」「~に似て」などの語を使った比喩を【直喩】といいます。
この句では「たとへば」という語があるため、魂を秋のほたるに例えていることが、わかりやすくなっています。
俳句では、見立ては避けた方が良いという意見もあります。
理由は、発想や表現がつまらなくなってしまうためです。しかし、必ずしも使ってはいけないわけではなく、要は使い方次第です。
ちなみに、蛇笏の師である高浜虚子は「比喩の名人」と言われています。
「たましひのたとへば秋のほたる哉」の鑑賞文
この句には、蛇笏の芥川龍之介の死への深い悲しみが込められています。
蛇笏と龍之介の交流は文通のみで、直接会うことはできなかったそうです。
そのため、「亡くなった龍之介の魂が蛍になって会いに来た」と捉える見方もあります。
また、蛇笏の俳句の特徴は、「小説的」であることとされ、龍之介もそうした蛇笏の特徴に魅力を感じていました。
この句も、見たままを詠んだのではなく、小説や物語のような発想から詠まれた句ではないかとも考えられています。
作者「飯田蛇笏」の生涯を簡単にご紹介!
(父・飯田蛇笏 出典:Wikipedia)
飯田蛇笏は、明治18年(1885年)に現在の山梨県笛吹市に生まれました。本名は飯田武治(たけはる)といいます。
山梨は江戸時代から俳句が盛んで、幼少期より俳句に親しんでいました。上京して早稲田大学で学び、若山牧水らと親交を深め、高浜虚子の主宰する「ホトトギス」へ俳句が掲載されるようになります。
師であった虚子が小説に専念したため、蛇笏自身も「ホトトギス」への投句をやめていましたが、虚子が伝統俳句を守るため俳壇へ戻ると、自らも「ホトトギス」への投句を再開しました。
大正期には「ホトトギス」の代表的俳人として活躍しました。
俳句雑誌「雲母」を主宰し、ふるさとの山梨に拠点をおきながら、俳句の普及に努めました。太平洋戦争では息子たちが相次いで戦死するなど、つらく悲しい出来事もありましたが、「雲母」を再開させ、句集を発表するなど、活動を積極的に行っていました。
昭和37年(1962年)に77歳で病死しました。
飯田龍太のそのほかの俳句
- どの子にも涼しく風の吹く日かな
- 大寒の一戸もかくれなき故郷
- 紺絣春月重く出しかな
- 春すでに高嶺未婚のつばくらめ
- いきいきと三月生る雲の奥
- 父母の亡き裏口開いて枯木山
- 一月の川一月の谷の中
- かたつむり甲斐も信濃も雨の中
- 白梅のあと紅梅の深空あり
- 貝こきと噛めば朧の安房の国