【金亀虫擲つ闇の深さかな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

「俳句」は、日本の伝統的な文芸でありつつも、常に革新と進化を続けています。令和の現代でも俳句をたしなむ人、鑑賞する人は増える一方です。

 

時代ごとの世相に合わせて俳句も変わり続けていますが、名句と呼ばれる句はすぐれた文学としての普遍性を持ち、多くの人々に衝撃を与えたり、共感を得たりしています。

 

今回は、数ある俳句の名句の中から「金亀虫擲つ闇の深さかな」の句をご紹介します。

 

 

この句はどのあたりが想像を掻き立たせるのでしょうか。

 

本記事では、「金亀虫擲つ闇の深さかな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

「金亀虫擲つ闇の深さかな」の季語や意味・詠まれた背景

 

金亀虫 擲つ闇の 深さかな

(読み方:こがねむし なげうつやみの ふかさかな)

 

この句の作者は「高浜虚子(たかはしきよし)」です。明治期から昭和初期にかけて活躍した写生を得意とした俳人です。

(※写生…実物・実景を見てありのままに写し取ること)

 

季語

この句の季語は「金亀虫(こがねむし)」で、季節は「夏」を表します。

 

コガネムシは、金緑色または黒褐色の体を持つ甲虫です。大きな羽音を立てて、明るい光に向かって飛んでいく習性があります。

 

物にぶつかると死んだふりをすることでも知られており、ブンブン虫やカナブンといった名前も持ちます。

 

コガネムシは夏に成虫になるため、夏の季語として扱われています。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「しつこく飛ぶコガネムシをつかまえて庭に投げつけると、闇の深さを知った。」

 

という意味になります。

 

句中の「擲つ(なげうつ)」とは、投げつける・捨てるという意味です。

 

この句が詠まれた背景

この句は高浜虚子が1904年に行われた句会で詠んだ句で、句集「五百句」に収録されています。

 

当時の俳句会には、高浜虚子率いる「伝統を重んじる派閥」と河東碧梧桐率いる「新しい手法で詠む派閥」の二つの流派がありました。

 

虚子派と碧梧桐派は対立し、ライバル意識をもって句作していました。そして、各派閥が対決するために行われたのが上記の句会です。

 

虚子は対立する派閥に対して皮肉を込めて句作したと言われています。

 

句会は参加した俳人たちが句を複数提出しましたが、虚子のこの句は名句として選ばれました。

 

「金亀虫擲つ闇の深さかな」の表現技法

詠嘆の切れ字「かな」

「切れ字」は俳句でよく使われる技法で、感動の中心を表します。代表的な「切れ字」には、「かな」「けり」「ぞ」「や」などがあります。

 

この句は「深さかな」の「かな」が切れ字に当たります。そして、切れ字「かな」は直前の言葉に対して詠嘆の意味を込めます。つまり、虚子は闇の深さについて非常に強く思うことがあることを示しています。

 

句切れ

句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。

 

句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。

 

この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「金亀虫」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。

 

対比(金亀虫と闇の深さ)

対比とは、相対する二つの物事を登場させ、作者の主題を際立たせる技法です。

 

今回は光を反射して輝く金亀虫に対して、深い闇を対比させています。キラキラ光る金亀虫ですが、その虫が見えなくなるほど闇が深いことを示しています。

 

虚子は闇の深さを金亀虫を使って強調しています。

 

「金亀虫擲つ闇の深さかな」の鑑賞

 

【金亀虫擲つ闇の深さかな】は、伝統的な写生の道と別の道を歩む碧梧桐派に対する皮肉と驚きを込めた句です。

 

この句の状況は、虚子が金亀虫を外へ投げ捨てても見えないですし、虫の羽音も物にあたる音もしていません。

 

金亀虫の行方が分からないことを裏返せば、闇は虚子の想像を超えて深かったことを示しています。

 

闇を碧梧桐派のことを指しているとすると、碧梧桐派は虚子の知らぬ間に勢力を強め、虚子を飲み込む勢いがあることになります。

 

碧梧桐派は虚子を脅かす存在であるとともに、碧梧桐派を闇に例える皮肉が込められています。

 

勢力として碧梧桐派を認め驚きながらも、表現技法として認めないという虚子の姿勢が感じられる句です。

 

作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!

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(高浜虚子 出典:Wikipedia)

 

高浜虚子(18741959年)。本名は高浜清(きよし)、愛媛県出身の俳人です。ペンネームの由来は本名の「きよし」から来ています。

 

虚子は松山藩士の五男として生まれ、9歳の時に高浜家を継ぎます。その後、高校生の時に1歳上の河東碧梧桐とともに正岡子規に師事します。

 

17歳の時には子規の正式な弟子になりますが、子規が後継者として虚子を指名すると虚子は拒否します。

 

24歳で俳誌「ホトトギス」の発行人となりますが、俳句ではなく小説を執筆し、俳句とは離れた生活を送ります。しかし、39歳の時に俳壇へ復帰しますが、これは碧梧桐への対抗心からきたものです。

 

虚子と碧梧桐は当初は非常に仲が良かったのですが、この頃になると句作の方針の違いから二人は対立していました。

 

これ以降、虚子は「ホトトギス」の中心人物として、客観写生を重視する作風を訴え続けました。

 

高浜虚子のそのほかの俳句

虚子の句碑 出典:Wikipedia