【湯豆腐やいのちのはてのうすあかり】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

日本には著名な俳人が残した数多くの俳句があります。

 

現代になっても俳句を嗜む方がおり、数多くの俳句が愛されながら詠まれています。

 

そんな名句の中でも「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」という句は、親しみ深い作品の1つとして知られている句になります。

 

 

作者はどのような背景でこの句を詠んだのでしょうか、またこの俳句を口ずさんだ時の心情はどうだったのでしょうか?

 

本記事では、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の季語や意味・魅力(すごさ)

 

湯豆腐や いのちのはての うすあかり

(読み方:ゆどうふや いのちのはての うすあかり)

 

こちらの句は、久保田万太郎が詠んだ作品です。

 

それでは、早速こちらの俳句について詳しくご紹介していきます。

 

季語

こちらの季語は「湯豆腐」「冬の季語」になります。

 

湯豆腐は季節でいうと、11月〜1月の冬の生活を表現する季語になります。

 

意味

この俳句の意味を現代語訳すると・・・・

 

「湯豆腐から立ちのぼる湯気のように、人生とははかないものである」

 

となります。

 

湯豆腐は平穏な食卓を象徴する言葉ですが、そこから立ち昇る湯気はすぐに消えてなくなってしまいます。

 

この部分に「いのちのはて」つまり、もうそう長くはない万太郎自身の命を例えて表現しています。

 

そして、いのちが燃え尽きるる時に見えるであろう「死後の世界のうすあかり」が自分を待っていると詠んでいる俳句です。

 

年を取ることで感じる、命のはかなさや寂寥感が感じられます。

 

この句が詠まれた背景

久保田万太郎の人生はとても波瀾万丈なものでした。

 

1度目の妻を自死で亡くし、2度目の妻との結婚生活も呆気なく終わってしまいます。

 

さらに久保田万太郎は、晩年になってから長男に先立たれ同棲していた元芸者の三隅一子も無くしてしまいました。この一子は、久保田が最も愛した女性だけに、相当の打撃であったようです。

 

こちらの俳句は一子は亡くなってから10日目の忘年会での座題「湯豆腐」で詠まれた作品です。己の命の短さを詠んだ句で、事実この半年後の会食中、植物が喉に詰まり急逝しています。

 

「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」は、亡くなるおよそ半年前に詠まれており、万太郎の残した句の中で最高傑作と言われています。

 

「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の表現技法

 

こちらの句で使われている表現技法は・・・

 

  • 「湯豆腐や」の部分の切れ字
  • 「うすあかり」の部分の体言止め

     

    の2つになります。

     

    「湯豆腐や」の部分の切れ字

    「湯豆腐や」の「や」の部分が切れ字になります。

     

    切れ字とは文章に余韻を残し、句に親しみやすさを与える技法です。

     

    こちらの句では「湯豆腐や」とすることにより、湯豆腐がある食卓を頭の中で想像しやすくなっています。

     

    また「〜や」とすると、句を詠む際にここでひと呼吸をおくことになり、俳句にリズム感が生まれます。

     

    「うすあかり」の部分の体言止め

    下の句の「あかり」の部分が、体言止めです。

     

    体言止めとは、下の句を名詞で終わらせる技法のことです。

     

    体言止めを使用することにより、俳句全体のインパクトが増し、心に響く作品に仕上がります。

     

    「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」の鑑賞文

     

    【湯豆腐やいのちのはてのうすあかり】の句は、湯豆腐を囲むほのぼのとした風景が浮かんで来る作品です。

     

    それに対し中七句・下 五句は、命の儚さを感じさせられ、「湯豆腐や」の部分とは真逆の寂しい印象です。

     

    特に「いのちのはての」部分は、これまでの人生の中で愛する者たちとの別れて孤独さを感じ、穏やかな生活とは無縁だった様子がうかがえます。

     

    そして「うすあかり」は、死んだ後に見るであろう、消え入りそうなあかりが感じ取れます。

     

    湯豆腐のはかない白い湯気と己の命がもうそう長いものではないことを掛け合わせて詠まれた句です。命の儚さがヒシヒシと伝わって来ます。

     

    作者「久保田万太郎」の生涯を簡単にご紹介!

    Kubota Mantaro.JPG

    (1955年の久保田万太郎 出典:Wikipedia)

     

    久保田万太郎は、1898年(明治22年)に東京都東京市浅草に生まれ。実家は袋物(足袋)製造販売業でした。

     

    小中学校を経て、慶應義塾大学予科に進学をし、文化科の教授森鴎外・永井荷風らの出会いがその後の人生に大きな影響をもたらしたと言われています。

     

    三田俳句界に属し岡本松浜や松根東洋城らを師匠とし、俳句を学んで行きました。

     

    予科2年生の時に小説「朝顔」、戯曲「遊戯」が東京朝日新聞で高い評価を得て、一躍著名人入りし、その後も小説家・戯曲家として才能を発揮します。

     

    第一乙種で兵役を逃れ、戦時中も文芸活動に仲間らと共に携わり、国民文芸会の理事や慶応義塾の講師として活躍していました。

     

    30歳の時に最初の妻、大場京と結婚しますが、女癖の悪さにより46歳の時に自死しています。

     

    その期間にも新演芸のメンバーとして、東京日日新聞・大阪朝日新聞などで長編小説「露芝」などや戯曲「雨空」等の多くの作品を手がけ、勢力的に活動していました。

     

    53歳の時に、日本文学普及会から菊池寛賞を受賞し、4ヶ月後に内閣情報局の指示により、満州国に派遣。さらに日本演劇社社長となり、上海で活動します。

     

    戦後は帝国芸術院会員、毎日新聞演劇賞選定委員、日本放送協会理事、文化賞選定委員会委員など多忙な生活を過ごしていました。

     

    57歳の時に俳句雑誌「春燈」を創刊し、数多くの作品を残しています。

     

    74歳の時に宴会際で赤貝の寿司を喉につまらせて、あっけなく逝去しました。

     

    久保田万太郎のそのほかの俳句

     

    • 神田川祭の中をながれけり
    • 竹馬やいろはにほへとちりぢりに
    • さびしさは木をつむあそびつもる雪
    • あきかぜのふきぬけゆくや人の中
    • 水中花咲かせしまひし淋しさよ
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