俳句は学校やテレビでも見かける身近なものとして定着しています。中には自分の気持ちを俳句にしたためて、趣味にしている方もいらっしゃいます。
そして日本には、これまでに有名な俳人によって詠まれた作品が多数残されています。
今回は数ある名句の中から「炎天の遠き帆やわがこころの帆」という山口誓子の句をご紹介します。
高台からの遠望。「炎天の遠き帆やわがこころの帆」山口誓子。2013.6.30、宜野湾市。 pic.twitter.com/apOhgUvc4y
— Jun Yoshii 由井純 (@yoshii_jun) July 1, 2013
この句は一見心情を詠んでいる句に見えますが、どのあたりが名句と言われる理由なのでしょうか?
本記事では、「炎天の遠き帆やわがこころの帆」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「炎天の遠き帆やわがこころの帆」の季語や意味・詠まれた背景
炎天の 遠き帆やわが こころの帆
(読み方:えんてんの とおきほやわが こころのほ)
この句の作者は「山口誓子」です。誓子は昭和期に活躍した写生を中心とする俳人です。
(※写生…実物・実景を見てありのままに写し取ること)
季語
こちらの句の季語は「炎天」で、季節は「夏」を表します。
炎天とは、日差しが強い真夏の空のことを指します。
情景としてはくらくらするほど熱く、きつい日差しで影の色が一層濃くなるようなイメージです。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「うだるような暑さの中で遠くに船の帆が見える。この帆は私の志の帆でもある。」
という意味です。
この句が詠まれた背景
この句は誓子が1945年、呼吸器の病により三重県の伊勢で療養していた時に詠んだと言われています。
誓子がいた療養先の部屋からは海が見えたと言われており、誓子はそこから見た景色を度々句にしています。
誓子は帆について「具象から来ているが、抽象の帆なのである。」と語っています。つまり、現実に帆船は見えているのに加えて、自分の思いを述べているということです。
そしてこの句が詠まれたのは終戦の約1週間後です。
療養中の弱った身である上に、終戦直後の感慨にひたっている時期の思いをこの句に詠んでいるのです。
「炎天の遠き帆やわがこころの帆」の表現技法
詠嘆の切れ字「や」
切れ字とは、「感動が伝わりやすくなる」「共感を呼びやすい」「インパクトを与える」といった主に3つの効果がある表現技法のことです。代表的な切れ字には「や」「かな」「けり」などがあげられます。
こちらの俳句では「遠き帆や」の「や」の部分が「切れ字」に当たります。
この句では「炎天の遠き帆」に対して、誓子が感慨深く思っていることが分かります。
中間切れ
また、切れ字の「や」は意味を切る働きがあります。つまり「炎天の遠き帆」が一つの文章であることを示します。
中間切れとは、中句の途中で意味が一旦切れる状態の句をいいます。
今回の句は五・七・五で区切ると「炎天の/遠き帆やわが/こころの帆」となります。
しかし、切れ字の効果による句切れでは・・・
炎天の 遠き帆や/わが こころの帆
になります
中間切れは本来のリズムを崩して、二つの物事を指し示すために使われます。
今回は「遠き帆」と「こころの帆」という二つの言葉があることを分かりやすく示すために使用されています。
対句法
対句とは、対応する言葉を並べることで印象を強める技法です。
今回は中間切れによって句を半分に切ることで、言葉の対応を分かりやすくしています。
つまり「炎天の遠き帆」と「わがこころの帆」が対句になっています。
同一の言葉ではありませんが、対応する意味を持ち、独特のリズム感を生むために使われています。
「炎天の遠き帆やわがこころの帆」の鑑賞文
【炎天の遠き帆やわがこころの帆】は、誓子の心の中にある希望を船の帆を用いて表現しています。
誓子は暑い日の沖合に見えたと言っていますが、太陽がギラギラと照りつける海面に見える帆船ですから、はっきりと見えたとは考えにくい部分があります。
つまり、ぼんやりと船の帆が見える状況だと考えられます。
その帆が自分の心の帆だと述べているため、何かに見立てていることになります。
遠いところということは現在ではなく、心の帆は過去や未来の視点での帆になります。
そして終戦間もない時期に帆船が海にいることを考えると、非常にのんびりとしている雰囲気を感じます。
療養中の身で終戦直後ということを踏まえると、平和で何の心配もなく様々なことに取り組みたいという希望の表現だと考えられます。
帆を自分の希望や目標に見立てていることで、まだここから進んでいくぞという誓子の志が見えるようです。
作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!
(山口誓子 出典:Wikipedia)
山口誓子(1901~1994年)。誓子は「せいし」と読み、本名は新比古(ちかひこ)。京都府出身。
ペンネームは本名の「ちかひこ」に漢字の当て字をしたことに由来しています。
高浜虚子に師事し、句誌「ホトトギス」で四S(しえす)として活躍します。
しかし虚子の写生重視に相容れず、水原秋桜子と共に「馬酔木」で句作に励みます。
新興俳句運動の中心人物で、昭和期の俳人として有名になりました。
戦後の俳句復興を牽引し、1976年に勲章、1992年に文化功労者になりました。
作風は現実をそのまま切り取る「写生」を中心としていますが、新たな季題を取り入れたり、心情を盛り込んだりと新しい物を取り入れる姿勢もありました。
山口誓子のそのほかの俳句
( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia)
- 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ
- 突き抜けて天上の紺曼珠沙華
- 匙なめて童たのしも夏氷
- ほのかなる少女のひげの汗ばめる
- 夏草に機缶車の車輪来て止まる
- 海に出て木枯らし帰るところなし
- 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
- ピストルがプールの硬き面にひびき
- 流氷や宗谷の門波荒れやまず
- かりかりと蟷螂蜂のかほを食む
- 風雪にたわむアンテナの声を聴く