【寒月や門なき寺の天高し】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

江戸時代には「俳句」は俳諧・発句などと言われていました。

 

江戸時代の俳諧師で特に名高いのが、松尾芭蕉、小林一茶、与謝蕪村の三人です。

 

その中でも与謝蕪村は絵師でもあり、絵画のような写生的な句を多く残しています。

 

今回は与謝蕪村の数ある名句の中でも「寒月や門なき寺の天高し」という句を紹介していきます。

 

 

本記事では、「寒月や門なき寺の天高し」の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「寒月や門なき寺の天高し」の作者や季語・意味

 

寒月や 門なき寺の 天高し

(読み方:かんげつや もんなきてらの てんたかし)

 

こちらの句の作者は「与謝蕪村(よさぶそん)」です。

 

与謝蕪村は、江戸時代の中期に活躍した俳人で、画家でもありました。松尾芭蕉や、小林一茶と並んで江戸時代の俳句の巨匠とされます。

 

こちらの句は、「蕪村句集」という句集に所収されている句になります。

 

 

季語

この句の季語は「寒月(かんげつ)」、季節は「冬」です。

 

「寒月」とは、冬の夜に出る、冷たく冴えわたった月のことを指します。

 

単に、「月」という場合は、秋の季語になります。

 

俳句仙人

月は満ち欠けしながら年中出ているものですが、特に秋の月が美しいとされ秋の季語とされます。しかし、「寒月」となると冬の季語になります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「寒い夜、空には冴えわたった月が出ている。門もない小さな寺の上には、澄み切った空が天高く広がっている。」

 

という意味になります。

 

俳句仙人

次にこの句で使われている表現技法を紹介しています。

 

「寒月や門なき寺の天高し」の表現技法

 

こちらの句で用いられている表現技法は・・・

 

  • 切れ字「や」(初句切れ)
  • 「寒月」と「門なき寺」の対比

 

になります。

 

①切れ字「や」(初句切れ)

切れ字とは句の流れを断ち切り、作者の感動の中心を効果的に表す語を指します。

 

「や」「かな」「けり」は代表的なものとしてよく知られていますが、他にもたくさんの切れ字が存在します。

 

この句では、「寒月や」の「や」が切れ字に当たります。

 

つまり、冬の寒い夜空にかかる、冷たい月に対して覚えた感動がこの句を詠むきっかけになったことがわかります。

 

また、切れ字のあるところでは、意味の上でもリズムの上でも句が一旦切れます。

 

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この句は初句に切れ字「や」がありますので、「初句切れ」の句となります。

 

②「寒月」と「門なき寺」の対比

対比とは、複数のものを並べて、その共通点または相違点を比較し、それぞれの特性を際立たせて印象付ける技法のことです。

 

この句では、「寒月」と「門なき寺」が対比されています。

 

天に高くある寒月と、地にある門さえもない小さな寺。

 

並べてみることで、月のかかる天の高さ、小さな寺の慎ましい様子がより一層際立って感じられます。

 

③季重なり

この句では、冬の季語である「寒月」と秋の季語である「天高し」で季重なりが起きています。

 

本来「天高し」は秋になって空気が澄み、空が高く感じる様子を表す季語です。

 

ここでは冬の澄んだ空気に輝く寒月を見て、夜空がどこまでも高く見えていることを表現しています。

 

俳句仙人

「寒月や」と切れ字を使っているため、主題はあくまで寒月であり、「天高し」は澄んだ夜空の様子や作者の感想を表すに留まるため、季語は「寒月」になるのです。

 

「寒月や門なき寺の天高し」の鑑賞文

 

【寒月や門なき寺の天高し】は、凍えるような冬の夜の月を絵画的に詠んだ句です。

 

冬の夜空の空気は澄みきって、月はくっきりと浮かんで見えています。

 

お月見をする中秋の名月のような穏やかさはなく、冷たい夜気に玲瓏と冴えた光を放つ、静かな月です。

 

天に高くある月と、門さえもないつつましい小寺との対比が印象的です。

 

月のかかる空はどこまでも果てしなく広がっているように見え、小寺はいよいよひっそりとしずまって見えるのでしょう。

 

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その光景をながめやる作者の白い息さえ感じられそうな句となっています。

 

与謝蕪村の寒月の俳句

満月, 冬, 雪, 風景, 月光, 冬の, 冷, フォレスト, 氷

 

蕪村は「寒月」の句をたくさん詠んでいる

【寒月や門なき寺の天高し】の句は、「蕪村句集」という句集に所収されている句になります。

 

この句集は、与謝蕪村の門人・高井几董(たかいきとう)が、蕪村の一周忌に合わせて編集したものです。

 

この句が果たしてどういうときにどういう光景を詠んだものなのか、詳しいことはわかっていません。

 

「寒月」という句題は蕪村にとって興味深いものだったようで、多くの句に「寒月」を詠みこんでいます。

 

蕪村は「寒月」を冷たく超然と地上を見下ろす存在のように描いています。

 

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ここでは、「寒月」を詠み込んだ蕪村の句をいくつか紹介します。

 

寒月や 鋸岩の あからさま

(意味:冷たい冬の月が皓々としている。鋸のようにごつごつした岩山が、月の光に照らされてはっきりと見えている。)

寒月や 開山堂の 木の間より

(意味:冷たい冬の月の光が、開山堂を覆う木立の隙間から漏れてきている。 ※開山堂とは、反寺にある建物で、その寺に初めて住んだ僧をまつった建物のこと。)

 

「寒月」と「鋸岩」、「寒月」と「開山堂」がそれぞれ対比されている句です。

 

天にある月と、地にある無生物(建物や岩)を対比するという趣向は、今回取り上げている句とも通ずるものがあります。

 

寒月や門を敲(たたけ)ば沓(くつ)の音

(意味:冷たい月の光に照らされてやってきて、門をたたくと、こちらの合図に気づいてくれたものか、向こうからくつの音がする。)

寒月や僧に行き合ふ橋の上

(意味:冷たい月に照らされて歩いていると、橋の上で僧侶と行き会ったことだ。)

寒月に木を割る寺の男かな

(意味:冷たい冬の月のもとで木を割っている、寺の下働きの男がいることよ。)

寒月や衆徒の群議の過て後

(意味:月の光の下で、僧兵たちが戦の相談をしていった。その僧兵たちも去り、残るは冷たい冬月ばかりである。)

 

こちらの4つの句は、寒月とその下の人の様子を対比させた句です。寒々しい凍えるような夜気の中でも、人の営みを興味深く見つめる作者の鋭い観察眼が感じられます。

 

また、寒月の下の冴え冴えとした風景を詠んでいるものもあります。

 

寒月や 枯木の中の 竹三竿

(訳:寒月が冴え冴えと辺りを照らし出しているなぁ。枯れ木の中に竹が三本生えているのがよく見える。)

俳句仙人

この句は枯れ木の中で特に目立つ竹を月が照らしている様子を詠んでいます。

 

寒月以外の冬の月の句もたくさん詠んでいる

作者は冬の季語と月を取り合わせで詠むことも行っています。

 

ここでは、寒月以外の表現で詠まれた冬の月の句を見ていきましょう。

 

既に得し 鯨(くじら)や逃げて 月ひとり

季語鯨(冬)

(意味:既に生け捕ったはずのクジラが逃げて、天上には月が1つポツンと照っている。)

古傘の 婆裟(ばさ)と月夜の しぐれかな

季語:しぐれ

(意味:古い傘が舞うようにひるがえっている月夜に時雨が降っているなぁ。)

霜百里 舟中に我 月を領す

季語:霜(冬)

(意味:霜が百里にも渡って降りているような夜に、船の中で私は月を独り占めしている。)

風雲の 夜すがら月の 千鳥哉

季語千鳥(冬)

(意味:風雲が立ち込める一晩中飛び続けた月の光に照らされた千鳥たちよ。)

静なる かしの木はらや 冬の月

季語:冬の月

(意味:静かな樫の木々にかかる冬の月だ。)

冬こだち 月にあはれを わすれたり

季語:冬こだち(冬)

(意味:冬の枯れた木立にかかる月に、思わずしみじみとした気持ちも忘れるほどの美しさを見た。)

水仙に 狐あそぶや 宵月夜

季語:水仙(冬)

(意味:狐が水仙で遊んでいる宵の月夜だ。)

 

「寒月」の句と比べると、情景が思い浮かびにくく、少し難解な句が多い印象です。

 

それだけに「寒月」という季語が持つ分かりやすさがよく分かり、作者が冬の月を詠む時に試行錯誤していたことがよくわかります。

 

また、「月」という秋の季語を入れるため、季重なりや取り合わせの句になりやすく、主題がぼけてしまっているのも特徴的です。

 

俳句仙人

こういった事情から、作者の冬の月の句は「寒月」を使用するものが高く評価される傾向にあります。

 

作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!

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(与謝蕪村 出典:Wikipedia)

 

与謝蕪村は、1716年から1784年を生きた俳人であり、画家でもあります。本名を谷口信章といいます。

 

蕪村は雅号で、与謝は母親の出身地丹後与謝の地名からとったともいわれますが、本当のところはわかっていません。

 

摂津国、現在の大阪府の生まれですが、20歳くらいのころ江戸に下り、俳諧を学ぶようになります。

 

江戸時代前期に活躍した松尾芭蕉にあこがれ、芭蕉の足跡をたどる旅をしたりもしました。

 

与謝蕪村が俳諧を志したころ、世には低俗な俳諧があふれており、蕪村はそれを嘆いて芭蕉のような芸術性のある俳句を目指しました。

 

写実的で絵画のような俳句を得意とし、また俳句を書き添えた絵、俳画を始めたのも与謝蕪村です。

 

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明治時代になって、俳諧を近代詩歌の俳句にまで高めていった正岡子規が与謝蕪村を高く評価したことから注目されるようになった俳人でもあります。

 

与謝蕪村のそのほかの俳句

与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia