俳句は誰でも気軽に始められるものとして有名ですね。
そんな俳句ですので、意外な人が俳句を雑誌に投稿していたりすることをご存知でしょうか?
実は「羅生門」「鼻」などで有名な芥川龍之介もその一人です。
龍之介は「青蛙おのれもペンキぬりたてか」という句を発表し、高いセンス力で有名です。
青蛙
おのれもペンキ
ぬりたてか 芥川龍之介 pic.twitter.com/tJirHKKOzF
— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) May 4, 2014
この句のセンスの高さが知りたい方も大勢いらっしゃるかと思います。
そこで今回は「青蛙おのれもペンキぬりたてか」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
目次
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」の作者や季語・意味・詠まれた背景
青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか
(読み方:あおがえる おのれのぺんき ぬりたてか)
こちらの句の作者は「芥川龍之介」です。
有名文学作品の「羅生門」「蜘蛛の糸」など執筆した明治時代の小説家です。
季語
こちらの句の季語は「青蛙」で、季節は「夏」です。
ちなみに、蛙(あるいは「かわず」)単体では春の季語になります。
蛙は変温動物ですので、冬になると冬眠し、春になると目覚めて活動します。そのため、一年で蛙の声を一番最初に聞き始める季節である春が季語とされています。
ところが、蛙そのものをよく見かける季節は梅雨の時期から夏の時期です
そのため、具体的な蛙の種類を指す「青蛙」は夏になります。
同様に「雨蛙」も夏を指します。余談にはなりますが、青蛙と雨蛙は生物学上では違う分類になります。見た目で見分けがつきにくいため、季語上で明確な使い分けがなされることは少ないとされています。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「青蛙、お前の体はテカテカだが、まるでペンキ塗りたてのようだな」
という意味になります。
この句が詠まれた背景
龍之介は1915年に「羅生門」を発表し夏目漱石に見出され、既に作家として十分に名前が売れていました。
しかし、この頃の龍之介は俳句に対して非常に積極的でした。
実際に高浜虚子が主宰する句誌「ホトトギス」に投稿しています。その理由は龍之介が漱石を師と仰ぐ夏目漱石にあります。
(夏目漱石 出典:Wikipedia)
この頃の龍之介は漱石邸に出入りするようになりました。
そこでは文学について議論を交わしたりや俳人に出会ったりと、文学について深く考える機会があったとされています。
そういった経験から龍之介自らも「ホトトギス」に投稿するほど詠むようになったと言われています。
龍之介の詠む句は着眼点が鋭かったり、誰かの作品を下敷きに詠んだ作品が多くあります、
この句はフランスの小説家ジュール・ルナールの「博物誌」にある詩を文字って創作されました。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」の表現技法
本歌取りに似た技法
和歌に見られる技法に「本歌取り」があります。これは有名な和歌をそのまま引用し、その背景を踏まえて詠む方法です。
今回の句で言えば、ルナールの詩は「青とかげ ― ペンキ塗り立てご用心」とあります。
これを龍之介はトカゲを青蛙とし、もじったことになります。龍之介自ら認めている証拠に「だから自分の作には『おのれも』があるのだ」と述べています。このように引用することで、引用文のコミカルさを受け継ぎながら、龍之介は青蛙に対する受け取り方を表現しています。
俳句に本歌取りという明確な言葉があるわけではないですが、龍之介は誰かの句を踏まえて詠む句が多く見られます。
初句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「青蛙」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」の鑑賞文
【青蛙おのれもペンキぬりたてか】は、フランス文学作品を巧みに利用し、自分の作品へと昇華した句であると言えます。
元の詩が青トカゲならば、龍之介は青蛙のほうがいい作品になるぞという意気込みが見えます。
目の前で見ているような情景として想像してみると、青トカゲより青蛙のほうが想像しやすいことに気が付きます。
実際の句も龍之介が「お前もペンキ塗りたてか!」と青蛙に話しかけるような内容です。
青蛙は雨などの水に濡れて、遠くからはテカテカで、近くではぬらぬらとした質感を出しています。
日本の四季に触れている人であれば、青蛙特有のぬるっとした表現が「ペンキ塗りたて」だと想像しやすいはずです。
分かりやすい表現力と観察眼は龍之介の得意分野であることがこの句からうかがえます。
作者「芥川龍之介」の生涯を簡単にご紹介!
(芥川龍之介の肖像 出典:Wikipedia)
芥川龍之介(1892~1927年)。本名で活動していました。俳号(俳句でのペンネーム)は我鬼。
龍之介は母の病気のため、生後7か月で伯母の元へ預けられ、後に叔父の養子となって芥川姓を名乗るようになりました。
学生時代の成績は非常に優秀で、成績優秀者に何度も選ばれています。
小学校で初めて俳句を詠んだとされていますが、それ以降学生時代では詠まれていません。
当時は合格者数名だったと言われている東京帝国大学文科大学英文学科に進学し、作家活動も開始します。
有名文学作品の「羅生門」も在学中に発表されています。
俳人としては大学卒業後に本格化し、俳句誌「ホトトギス」に投稿しますが、句集として発表することはありませんでした。
生涯で詠んだ数は1000句ほどと言われています。
1921年頃からは精神衰弱や腸カタルなど病に侵されるようになります。
家族をともに神奈川県で療養生活に入りながら作品を書き続けますが、1927年に服毒自殺により35歳の若さで亡くなります。
亡くなる少し前に、龍之介本人が句をまとめており、没後に妻が「澄江堂句集」として配りました。