五七五のわずか17音でつづられる「俳句」。
江戸時代から現在に至るまで、数多くの名句が生まれ、その背景とともに語り継がれています。
今回は、日本人であれば誰もが聞いたことがある文豪、芥川龍之介の作である「元日や手を洗ひをる夕ごころ」という句をご紹介します。
『元旦や
手を洗ひをる
夕ごころ』- 芥川 龍之介
元日は初詣や午後は来客で明るく華やかな一日となります。
そんな合間に手を洗いながら外に目をやるともう夕方になっていました。
ああ、今年の元日もこうして暮れようしているのかと、少し寂しさを感じてしまいました。#引用RT pic.twitter.com/s0wi7ATK4k
— Ami@みおおん隊 (@VenetyAmi) January 1, 2018
本記事では、「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。
目次
「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の季語や意味・詠まれた背景
元日や 手を洗ひをる 夕ごころ
(読み方:がんじつや てをあらひおる ゆうごころ)
この句の作者は「芥川龍之介」です。
『羅生門』や『鼻』などの短編小説を数多く残した小説家として知られている芥川龍之介ですが、実は詩や短歌、俳句においても優れた作品を残していることで知られています。
正月を題材とする句は数多くありますが、その中の一つ「元日や手を洗ひをる夕ごころ」は、芥川龍之介が残した名句です。
季語
こちらの句の季語は「元日」です。季節は「冬」、暦では1月を表す季語になります。
この「元日」という言葉は時間概念を含む表現であることから、厳密な意味で季語はないとする考え方もあります。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「元日、手を洗っていると、夕暮れだなぁと、しみじみと感じられた」
といった意味になります。
この句が詠まれた背景
元日は、日本人にとって一年の中でも特別な日です。初日の出を拝み、初詣に行き、新しい一念の始まりを家族・親戚・来客とともにお祝い、明るく華やかな一日となります
そんな合間に手を洗いながら外に目をやるともう夕方に…。
そんないつもと違う一日も時間が経ち、日暮れに近づいたときの何とはなしに淋しい実感が、さりげなく詠まれています。
この句を詠んだとき、芥川龍之介はトイレにでも行ったのでしょう。
「手を洗ひをる」という日常の何でもない動作を通して、この一日も暮れて行くというしみじみとした実感を感じ取ることができます。
「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 切れ字「や」
- 体言止め
になります。
切れ字「や」(初句切れ)
切れ字とは、「感動が伝わりやすくなる」「共感を呼びやすい」「インパクトを与える」といった主に3つの効果がある表現技法のことです。代表的な切れ字には「や」「かな」「けり」などがあげられます。
こちらの句は「元日や」の「や」が切れ字にあたります。
「あぁ、元日だなぁ」と、「や」を用いて今日が元日であることを強調しています。
また、この句は上五「元日や」に「や」がついていることから、「初句切れ」の句となります。
体言止め
語尾の「夕ごころ」は名詞で終わる「体言止め」という技法を使っています。
「体言止め」にすることで、詳細な説明を省き、余韻の効果を持たせています。
「夕ごころ」とは、「夕方だなぁと思う心」くらいの意味ですが、今日が元日であることと、ちょっとトイレに立って手を洗う日常の動作と相まって、しみじみとした響きを放っています。
「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の鑑賞文
【元日や手を洗ひをる夕ごころ】は、元日も時間が経ち、次第に日が暮れて行く光景を詠んだ句です。
ちょっとトイレに立ち、手を洗いながらふと外を見ると、「あぁ、もう夕方かぁ…」、誰もが心当たりのある日常の風景ではないでしょうか。
とても繊細な感性の持ち主だったといわれている芥川龍之介だからこそ、元日の夕暮れの気配の中に何かを感じたのでしょう。
言葉に表すには難しく、繊細すぎる何かを察したからこそ生まれた、芥川龍之介らしい一句といえます。
作者「芥川龍之介」の生涯を簡単にご紹介!
(芥川龍之介の肖像 出典:Wikipedia)
芥川龍之介(1892年~1927年)は東京市京橋区入船町(現東京都中央区明石町)に生まれた日本を代表する小説家で、俳号は「餓鬼」を用いていました。
幼いころに母を亡くし、親戚の家を転々として育ちます。
府立第三中学校(現東京都立両国高等学校)を卒業し、東京大学へ進学します。
東京大学在学中の1914年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行します。同誌上に処女小説『老年』を発表し、これが作家活動の始まりであったといわれています。
翌1915年には芥川龍之介の代表作の一つである『羅生門』を発表し、1916年、『新思潮』に発表した短編小説『鼻』が夏目漱石から絶賛され、その後も次々と小説を発表します。
1919年に塚本文と結婚し、3人の子どもをもうけましたが、1921年頃から心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患うようになります。
その後も小説を書き続けるも、療養を繰り返す身となり、1927年7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、服毒自殺を図ります。享年36歳でした。
芥川龍之介のそのほかの句