俳句には名句と呼ばれる句がたくさんあり、情景や心情など表現方法は様々です。
「五七五」の17音を定型とする短い詩で、その世界観は世界中の人々から高く評価されています。
今回は、数ある名句の中から「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」という村上鬼城の句をご紹介します。
ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
を彷彿とさせる#村上鬼城 #八重桜 #桜#お嬢様のお花見 pic.twitter.com/88waU7vhMD
— もふ(わしもふ) (@Wassy_mofu) April 19, 2019
なぜこの句が名句として知られているのでしょうか?
本記事では、「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」の季語や意味・表現技法・鑑賞など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」の季語や意味・詠まれた背景
ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな
(読み方:ゆさゆさと おおえだゆるる さくらかな)
この句の作者は「村上鬼城(むらかみきじょう)」です。
鬼城は、大正期から昭和初期にかけて活躍した、写生を得意とした俳人です。
季語
この句の季語は「桜」で季節はもちろん「春」を表します。
桜は古来より春を代表する花として読み継がれてきました。桜の花は神が宿るとされ、豊凶を占ったり、耕作開始の合図ともされていました。
言い換えれば、桜は春の王様として扱われてきた花です。
また、ぱっと咲いて潔く散る姿が人生に例えられることも多く、なじみ深い花として愛されてきました。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「ゆさゆさと大きな枝を揺らしている桜であることだなあ」
という意味になります。
風で揺れる花をつけた大木の桜。その大枝がゆさゆさと揺れている様子は素敵だなと詠んでいます。風で枝が揺れて満開の桜が散っていく情景が思い浮かんできます。
この句が詠まれた背景
この句は鬼城が仕事へ復職した頃に詠まれたと言われています。
鬼城は19歳の時に耳を患い、難聴になってからは司法代書人(現在の司法書士)として仕事をしていました。
しかし、51歳の時に難聴を理由に代書人の許可取り消しに遭います。そこで、公私ともに親交のあった高浜虚子が尽力し、再び営業許可を取り付けます。
当時の鬼城は心労が相当なものだったと言われています。
鬼城の日記には「10人の子どもを抱えており、家計は苦しく途方に暮れる」と書いています。
このような苦難から解放された頃に見た桜をこの句に表現しています。
「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」の表現技法
切れ字「かな」(詠嘆)
この句は句末「桜かな」に、詠嘆を示す切れ字「かな」がついています。
これは作者の心の動きを示す言葉で、直前の桜に感動していることを示します。
今回の句は桜の詳細を説明しており、大きな枝が揺れている様子について描かれています。
つまり、単に桜が美しいことに感動しているのではなく、大木の桜の様子に感動していることがわかります。
擬態語「ゆさゆさ」
擬態語とは、音として出ていない状態を感覚的に言葉で表現する技法のことです。状況を事細かに説明しなくても、短い言葉で相手に伝わる特徴があります。
今回の句では、大枝の揺れる様子を「ゆさゆさと」という言葉で表現しています。
「ゆさゆさ」は特に大きなものが動くときに使われる言葉です。
今回はゆさゆさを使うことで、花が満開で咲いている様子とそれが揺れている様子を読み手に表現しています。
句切れなし
今回は句末に詠嘆の切れ字「かな」があるため、句末で切れます。
そのため、この句は「句切れなし」となります。
句切れなし自体に技法はありませんが、今回は末尾に「!」マークを付ける感覚で詠まれています。
一息で読ませることで、圧巻の大木の桜のイメージを読み手に伝えています。
「ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな」の鑑賞文
【ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな】は、鬼城が桜を通して人生について感慨深さを詠んだ句になります。
桜を主題にしていますが、本来であれば景色には鳥や空など他にも目に入ります。しかし、桜だけを切り取ることで、いかに大きな桜であるかを伝えています。
そして情景を写生して詠んでいますが、桜と鬼城を重ねて読むことができます。
(※写生…実物・実景を見てありのままに写し取ること)
桜は大木ですから、長い月日をかけて大きくなったと考えられます。月日をかけた巨木の桜は、ゆさゆさと枝が揺れる程の強い風が吹いています。
鬼城の人生で言えば、随分と年を重ねた頃に自分に向かい風が吹いている状況です。
困難を受けてもどっしりとした桜のように、鬼城が耐えて構えている様子が感じられます。
さらに、春の桜が風で揺れれば、見事な桜吹雪や見えたことでしょう。
困難やハンディキャップのある鬼城が美しい桜をゆっくり見ている様子を考えると、復職も叶いホッとした心境が感じられます。
桜のようなに耐えて潔い人生を送ろうという、鬼城のしみじみとした様子が感じられます。
作者「村上鬼城」の生涯を簡単にご紹介!
村上鬼城(きじょう)は1865年生まれ1938年没。本名は村上 荘太郎(しょうたろう)で、東京都生まれ・群馬県育ちです。
鬼城忌
俳人・村上鬼城の1938(昭和13)年9月17日の忌日。
秋の暮 水のやうなる 酒二合 pic.twitter.com/6sEv0jxMBs
— 久延毘古⛩陶 皇紀2679年令和元年師走 (@amtr1117) September 16, 2019
村上鬼城は江戸小石川に生まれますが、8歳の時に群馬県高崎市に移り、11歳で母方の養子となり村上姓を名乗りました。
その後軍人を志して勉学に励みますが、19歳の時に耳を患い夢を諦めます。
難聴になった鬼城は司法代書人(現在の司法書士)の職に就職。この頃になると、高浜虚子が主宰する「ホトトギス」に投句を始めます。
以後、虚子から教えを請い、写生の立場で句作に励みました。
10人の子宝に恵まれ困窮が続きますが、虚子を含む周囲の支援もあり、後に俳人として生計を立てることができました。
村上鬼城のそのほかの俳句
- 冬蜂の死にどころなく歩きけり
- 闘鶏の眼つぶれて飼われけり
- 鷹のつらきびしく老いて哀れなり
- 生きかはり死にかはりして打つ田かな
- 蛤に雀の斑(ふ)あり哀れかな