【鶴舞ふや日は金色の雲を得て】俳句の季語や意味・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五七五と心地よいリズムの中に、自然や心情を込めることができる日本の文学「俳句」。

 

俳句には、短い言葉の中にいかにして感情をこめられるか工夫するという魅力があります。

 

今回は、杉田久女の有名な句の一つ「鶴舞ふや日は金色の雲を得て」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「鶴舞ふや日は金色の雲を得て」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「鶴舞ふや日は金色の雲を得て」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

鶴舞ふや 日は金色の 雲を得て

(読み方:つるまうや ひはこんじきの くもをえて)

 

この句の作者は、「杉田久女(すぎた ひさじょ)」です。

 

杉田久女は、昭和初期に活躍した鹿児島県出身の俳人です。

 

女性俳句の先駆者として名を残し、才色兼備な女性として知られています。久女の苛烈な俳句への姿勢と人生は、松本清張らの小説家にも興味を抱かせるほどのものでした。

 

久女の才能あふれる情熱的な句は、現代でも読み手に深い感動を与えています。

 

季語

この句の季語は「鶴」、季節は「冬」です。

 

「鶴」はシベリア方面から秋に渡来し、沼や田園で越冬し、春になるとまた飛び去ってゆきます。鶴の飛来地として有名なのは、鹿児島県出水市や山口県周南市です。「鶴」は、古来よりめでたいものとされ、尊ばれています。

 

ちなみに、「鶴」単独で使われた場合は「冬」の季語とされますが、「鶴来る(きたる)」「鶴渡る」とすると「晩秋」の季語となります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「冬の太陽が黄金に光る雲を得て大地を照らす中、鶴が美しく舞っていることだ」

 

この句は、盆地の水田を飛ぶナベヅル達の群れと景色の素晴らしさを詠んだ句となっています。

 

この句が詠まれた背景

 

この句が詠まれた場所は、山口県熊毛郡八代村(現在の山口県周南市八代)です。

 

八代地区では、全国で最も早く「近代日本自然保護制度発祥の地」として鶴の保護を明治20年から行っていました。大正10年には、「八代村鶴渡来地」として、この地域全域が天然記念物指定となり、昭和30年には特別天然記念物に指定されています。

 

八代地区は、本州唯一のナベヅルの渡来地です。ナベヅルは越冬のために毎年10月頃シベリアから訪れ、3月上旬まで八代地区で過ごします。八代地区は、周囲が小高い山に囲まれた標高300mから500m程の小さな盆地で、湿度が高い水田があり、鶴の生息に適した土地なのです。

 

現在では訪れる鶴の数は激減しましたが、久女が八代地区を訪れた頃には、二百を超えるナベヅルが渡来していました。

 

この句は、久女が八代地区に宿泊し、朝茜色の空を舞う鶴を見てこの句を詠ったものとされます。

 

「鶴舞ふや日は金色の雲を得て」の表現技法

初句切れ

俳句の句切れは、意味やリズムの切れ目のことをいいます。

 

この句では、「鶴舞ふや」と初句に切れ字「や」が使われており、「初句切れ」の句となっています。

 

切れ字「や」を用いることで、句に詠嘆の意味を持たせ、さらに読み手に呼びかける効果を生んでいます。

 

倒置法

倒置法とは、文節を通常の順序とは逆にする表現技法で、語句を強めたり俳句のリズムを整える効果があります。

 

この句は、通常であれば「日は金色の雲を得て鶴が舞ふ」などとなりますが、「金色の雲を得て」で終わっており、倒置法の表現が使われています。

 

倒置法を用いることで、俳句の情緒的なイメージを強めることができます。

 

この句でも、倒置法により「金色の雲を得て」と余韻のある終わり方をし、句の情景を印象的なものにしています。

 

擬人法

擬人法とは、物や動物、植物などを人間の動作に見立てる表現方法です。

 

この句では、「日は金色の雲を得て」となっており、「太陽が金色の雲を手に入れて」とまるで太陽が雲を手に囲んでいるかのような表現をとっています。

 

擬人法を用いることで、読み手にイメージを鮮明に思い浮かばせることができ、さらに句を生き生きとしたものにすることができます。

 

「鶴舞ふや日は金色の雲を得て」の鑑賞文

 

この句は、久女が山口県熊毛郡八代村(現在の山口県周南市八代)を訪れたときの作品です。

 

久女は八代地区に宿泊し、朝茜色の空を舞う鶴を見てこの句を詠ったものとされます。

 

久女は、この時のことを『久女文集』で「夜鶴飛翔の図」と美しい文で綴っており、鶴を見た感動が伝わってくるものとなっています。

 

「金色の雲」とは、黄金のように輝き、わずかに赤みを帯びた深い黄色の雲のことです。

 

一面の湿田の中、朝日を浴びて金色に輝く雲の空を鶴が舞うという、冬の美しい情景が伝わってくる句となっています。

 

【CHECK!!】

この句は昭和912月の作品で、『杉田久女句集』に収録されています。

『杉田久女句集』では、鶴の句が二部構成で六十一句収録されています。一部は「鶴を見にゆく」と題したものが十四句、二部は「孤鶴群鶴(こかくぐんかく)」で四十七句があります。

「孤鶴(こかく)」とは、野で自分の思うままに自由に遊ぶ鶴のこと、「群鶴(ぐんかく)」とは、群れをなす鶴のことです。この句は、一部「鶴を見にゆく」の中にあります。

 

作者「杉田久女」の生涯を簡単にご紹介!

 

杉田久女は、1890年(明治23年)鹿児島県鹿児島市で大蔵省の書記官を務めていた父赤掘廉蔵の三女として生まれました。本名は久「ひさ」と言います。

 

豊かな家柄に生まれた久女は、何不自由ない少女時代を送ります。高校は東京女子高等師範女学校附属お茶の水高等学校を卒業します。

 

その後、両親の反対を押し切り、明治42年に旧制小倉中学の美術教師で上野美術学校洋画家出身の画家・杉内宇内と結婚。後に長女昌子(後の俳人、石昌子)、次女をもうけました。

久女は、結婚後生涯を小倉で過ごすこととなります。

 

自分にも絵心があった久女は、芸術家の妻となれたことを誇りに思っていましたが、夫は中学校の教師の職に満足し、結婚後絵を描くことはありませんでした。久女は、「田舎の教師に堕ちて了(しま)つた」と嘆き、夫婦仲は次第に悪化していくことになります。

 

そして大正5年、久女が26歳の時に、「ホトトギス」の俳人であった久女の兄・赤堀月蟾(げっせん)の勧めで俳句活動を開始します。そして翌年の大正6年に、「ホトトギス」に初出句。その後高浜虚子と出会いました。

 

久女は、「東にかな女(長谷川かな女)、西に久女」と世間から評されるほど、俳句の才能を現すようになりました。

 

しかし、大正9年には腎臓病にかかり、さらに夫との夫婦仲も悪化したため、俳句を一時中断します。

 

2年後の昭和7年、久女は、本田あふひ、阿部みどり女、竹下しづの女、中村汀女、橋本多佳子らを始めとする全国の女流俳人に呼びかけ、女性のみの作品を収録した俳誌「花衣(はなごろも)」を創刊しました。しかし、「花衣」は5号で原因不明のまま廃刊となってしまいます。

 

昭和7年、久女は「ホトトギス」10月号で同人に昇格。虚子から「清艶(せいえん)高華」とその句風を評されました。しかし、久女の過激な性格と情熱は次第に虚子から避けられることとなり、昭和11年に「ホトトギス」を除名されてしまいます。「ホトトギス」除名の真相は、現在でも不明のままです。

 

久女は、その一件がきっかけで神経を病むようになり、さらに戦後の食糧難から栄養障害、腎臓病と体を崩し、56歳で福岡県立筑紫保養院にて逝去しました。

 

久女の波瀾万丈の人生は、松本清張の「菊枕」など多くの小説の題材として取り上げられるなど、様々な小説家にも影響を与えました。

 

久女は生前に自身の句集出版を切望しましたが、虚子に阻まれ叶いませんでした。久女死去後、娘の石昌子によって『杉田久女句集』『久女文集』が刊行されました。

 

杉田久女のそのほかの俳句