【夏の河赤き鉄鎖のはし浸る】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の心情や見た風景を綴り詠む「俳句」

季語を使って綴られる俳句は、たった十七音ですが、作者が見た風景やその心情を感じることができます。

 

今回は、山口誓子の有名な句の一つ夏の河赤き鉄鎖のはし浸るという句をご紹介します。

 

 

本記事では、「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

夏の河 赤き鉄鎖の はし浸る

(読み方:なつのかわ あかきてっさの はしひたる)

 

この句の作者は、「山口誓子(やまぐちせいし)」です。

 

明治、大正、昭和、平成を生きた俳人で、高浜虚子に師事しました。その後、『天狼(てんろう)』を創刊、主宰し、新興俳句運動の指導者的存在となりました。近代俳句の代表的俳人です。

 

 

季語

この句の季語は「夏の河」、季節は「夏」です。

 

「夏の河」は夏の河川のことです。

 

この句では「河」という漢字が使われていますが、「川」の漢字との使い分けがあります。現在の河川区分では「河」という漢字は、一級河川のような大河が連想されます。

 

「夏の河」と聞くと、暑い日差しを受け水面がキラキラ煌めく大きな河がイメージされます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「ギラギラと輝く真夏の太陽が照りつける安治川に、錆止めのため朱く塗られた鉄鎖の端だけが浸っている。」

 

という意味です。

 

「夏の河」とは、大阪市内を流れる安治川のことです。

 

「赤き鉄鎖」と聞くと、その赤色は古くなり錆びたためみられるサビの赤色かと思われます。しかし、誓子は「錆止めが施された朱色のペンキが塗られた鉄鎖」とのちに語っています。

 

安治川沿いに立ち並ぶ工場、そこに置かれている鉄鎖の端が河に浸っているという、都会の大阪で見られる何気ない風景を詠んでいます。

 

この句が詠まれた背景

この句は『炎昼(えんちゅう)』に所収されています。

 

この句は誓子が大阪に来た際に巡航船に乗り、安治川を通ったときに詠んだ句です。昭和12年の作品で、誓子36歳ごろの作品です。

 

その時に、目に留まった川筋の鉄鎖工場に鉄鎖が横たわっていました。錆止めの朱塗りがされた鉄鎖が地上に長く横たえられ、その端だけが夏の安治川に沈んでいる様子を詠んでいます。

 

従来、誓子は俳句のモチーフにしないような現代の情景を積極的に詠んでいました。この句は「ピストルが プールの硬き 面にひびき」の句とともに、誓子の句の中で高く評価されている一句です。

 

ちなみに、この句は発表されている連作5句の中の「夏の河」の冒頭句です。下記の俳句は、それぞれ連作として発表されたうちの有名な一句です。

 

【連作5句】

  • 「かりかりと 蟷螂蜂(たうらうはし)の かほを食む」
  • 「ほのかなる 少女のひげの 汗ばめる」
  • 「夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる」
  • 「ピストルが プールの硬き 面にひびき」
  • 「夏の河 赤き鉄鎖の はし浸る」

 

「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」の表現技法

句切れなし

句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。

 

句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。

 

この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「夏の河」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。

 

「夏の河赤き鉄鎖のはし浸る」の鑑賞文

 

誓子は巡航船に乗り、安治川を通った際に目にした現代の情景を詠みました。

 

暑い夏の太陽に照らされ、キラキラ輝く河の様子が目に浮かびます。

 

そこにふと河岸に目を向けると、朱色の鉄鎖があり、川に浸っている様子が誓子の目に留まったのでしょう。

 

従来の俳句では、風流なものや美しいと思われるものなどがモチーフとされることが多かったのですが、都会的素材を積極的に詠み込んでいこうとしていた誓子特有の句作姿勢が感じられます。

 

キラキラ輝く河とは対照に、放置され端が河に浸った朱色の鉄鎖のどこか寂しい様子が感じられます。

 

作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!

(山口誓子 出典:Wikipedia)

 

山口誓子は、明治34年(1901年)京都市上京区に生まれました。 本名は新比古(ちかひこ)といい、母方の祖父母が詩歌を愛好していたこともあり、影響を受けました。

 

明治43年に母を自殺で亡くし、明治44年、10歳のときに先に樺太に住んでいた祖父に呼ばれ、樺太に移住しました。大正3年に、庁立大泊中学校に入学し、このころから定型俳句を愛好し、国語教師に指導を受けました。

 

その後、大正6年に帰郷し、京都府立第一中学校に転入学し、大正8年には第三高等学校に入学しました。「京大三高俳句会」に加盟し、日野草城の指導を受け、「ホトトギス」に投句し始めます。

 

大正11年に東京大学法学部に入学し、高浜虚子や水原秋桜子に出会います。東大在学中は高野素十、山口青邨らもいた「東大俳句会」に所属し、樺太を素材とした句を詠んだりもしました。

 

「ホトトギス」に投稿を始めた頃は本名の新比古(ちかひこ)をもじり、「誓子(ちかいこ)」と読ませていましたが、高浜虚子に出会ったときに虚子が「せいし」と読んだことから、以降はこちらの読み方となりました。

 

大阪住友合資会社に就職した後も句作に励み、昭和7年に第一句集『凍港(とうこう)』を刊行しました。

 

高浜虚子に師事し、「ホトトギス」で、水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに4S時代を展開しました。

 

昭和10年に急性肺炎にかかり療養し、その時に「ホトトギス」を辞しました。先に「ホトトギス」と辞めていた水原秋桜子の「馬酔木」に移り、秋桜子とともに新興俳句運動の指導者的存在になりました。

 

昭和23年に『天狼』を創刊し、新興俳句系の西東三鬼、秋元不死男、平畑静塔、橋本多佳子、榎本冬一郎らと戦後の俳句復興に寄与しました。

 

1953年に兵庫県西宮市に転居し、朝日俳壇選者なども務めましたが、1994年に神戸市の病院で呼吸不全のため92歳で亡くなりました。

 

山口誓子のそのほかの俳句

( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia