俳句は五・七・五の十七音に四季を織り込み、詠み手の心情や情景を伝えることができます。
今回は、有名俳句の一つ「名月や畳の上に松の影」をご紹介します。
「名月や畳の上に松の影」
現代ではなかなか詠めないシチュエーション… pic.twitter.com/KREnwoVPM9— ぐるぐる♪グルグル♪ (=・ω・=) (@nekosuke0828) September 19, 2013
本記事では、「名月や畳の上に松の影」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「名月や畳の上に松の影」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
名月や 畳の上に 松の影
(読み方:めいげつや たたみのうえに まつのかげ)
この句の作者は江戸時代の俳諧師、「宝井其角(たからいきかく)」です。
其角は松尾芭蕉に師事し、芭蕉の高弟10人を意味する「蕉門十哲」の一人に数えられています。
その作風は師匠である芭蕉が初期に得意とした漢詩調の句から、わび・さびや伊達を特徴とする句、平易な言葉で庶民の暮らしや謎かけの洒落を楽しむ句など、変幻自在な点が特徴です。
季語
この句の季語は「名月」、時期は「仲秋」です。
季語の時期を表す「仲秋」とは秋の半ばの月、旧暦の8月のことです。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「中秋の名月が出ているなあ。部屋の中にまで月の光が差し込んで、畳の上に庭の松の影がくっきりとうつしだされていることだ。」
という意味になります。
ここで詠まれている季語の名月は「中秋の名月」のことで、旧暦8月15日の月のみを表します。
必ずしも満月になるとは限りませんが、満月でなくとも中秋の名月として楽しむのがお月見の元となった「中秋節」の特徴です。
俳句では8月14日から15日の月を「待宵」、8月15日から16日の月を「十六夜」として、中秋の名月の前後の月も愛でていました。
また、くもりで月が見えないことを「無月」、雨が降ることを「雨月」と呼び、月が見えないながらもほんのりと明るい月の面影を思い描く日でもあります。
この句が詠まれた背景
この句は1692年に其角によって刊行された、「雑談集」に収録されている句です。
「雑談集」の中で其角は、11世紀の中国の詩人である王安石の「月移花影上欄干」という句に着想を得たと書いています。
この句は肌寒い春の月夜の宿直の番を歌った詩の一節で、「月が西に移動して花の影が欄干の上にあらわれた」という意味です。
王安石が寒い春の月夜の宿直を歌ったのに対して、其角は秋の涼しさを感じる中秋の名月を畳の上でくつろいでいる最中を歌っています。
初期の芭蕉が得意とした漢詩を元にした俳句ですが、春と秋、宿直という仕事中とくつろいでいる最中という対比で、平易な言葉で庶民の生活もあらわした洒落風の俳句でもある、其角の真骨頂の句です。
「名月や畳の上に松の影」の表現技法
「名月や」の「や」の切れ字(初句切れ)
上句の「名月や」で初句切れの俳句です。
詠嘆の「や」を使うことで、読者は中秋の名月が出ていることをまず想像します。中秋の名月は満月に近い月なので、見事な月夜を想像させるのが狙いの一つです。
もう一つの狙いとしては、着想元の句となった「月移花影上欄干」も月から始まっているため、元の句を暗示しています。
「松の影」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法です。体言止めには、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「松の影」と体言止めを用いることによって、この句で其角が一番伝えたかったことが月の光でうつしだされた松の影ということがわかります。
着想元の句の「月移花影上欄干」は花の影でしたが、この句では庭に植えてある松が月の光で影になってうつしだされているという光景がはっきりと思い浮かぶでしょう。
「名月や畳の上に松の影」の鑑賞文
中秋の名月は曇ってしまうことが多い日ですが、この句が詠まれた日は月光が影を落とすほどはっきり見えていることから、秋の澄んだ空気の夜であることがわかります。
庭の松が畳の上に影になってうつっているのを見て、王安石が「月の光で花の影が欄干にうつしだされた」と詠んだことを連想し、同じような光景ながら畳の上でくつろいでいるという、庶民の夜の生活に落とし込んでいるのが見事です。
涼しくなってきた夜に窓を開けて月を見上げる、現代でもお月見などで行う行動のため、親近感が湧くのではないでしょうか。
其角のこの句は明治時代の月岡芳年による浮世絵集である「月百姿」にも収録されているほど有名です。その絵では、女性が団扇を片手に畳の上に寝転びながら、畳の上にうつった松の影を見ています。
(其角の句を画題とした明治時代の浮世絵 出典:Wikipedia)
直接月は描かれていないものの、松の影で月光を暗示する作品です。
作者「宝井其角」の生涯を簡単にご紹介!
(宝井其角 出典:Wikipedia)
宝井其角(1661年-1707年)は江戸時代前期に活躍した俳諧師です。本名は竹下侃憲(ただのり)で、母方の榎本姓を名乗っていましたが、後に宝井姓に改名します。
1673年に松尾芭蕉に入門、入門して数年でさまざまな歌集に入集され、1680年には漢詩調の俳句を集めた「虚栗」を刊行しています。芭蕉は漢詩調の俳句を試みていた時期があり、その時代の俳諧撰集です。1686年には俳諧の師匠である宗匠となって多くの歌集を刊行し、芭蕉の高弟である蕉門十哲に数えられました。1694年に芭蕉が死去すると、それまでの漢詩調、わび・さびの俳句から平易な言葉を使った洒落風の作風を生み出しました。
芭蕉は其角の作風に対して、修辞が巧みであると賞賛しています。同じく芭蕉の弟子の向井去来は、「切られたる 夢か誠か 蚤の跡」という其角の句に対して、「ノミに食われたくらいでここまで大げさな句を読めるとは」とその言葉の巧みさを賞賛している著作があるほどです。また、芭蕉研究の専門家である堀切実は其角のことを「師のわび・さびにも大いに共鳴していたが、師の没後は迷うことなく奇警な見立てや謎めいた句作りを喜ぶ洒落風へと変遷した」と評価しています。
其角は酒を好み、義理人情を好む典型的な江戸っ子として知られていました。現代において有名なエピソードとして、赤穂浪士の討ち入りの前日に俳人として親交のあった大高忠雄と会い、その変わりぶりに涙しながら「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだとされています。これは江戸末期から明治初期に書かれた歌舞伎の「松浦の太鼓」の創作エピソードとされていますが、其角の江戸っ子気質と俳人としての交流の広さが買われたのでしょう。
実際に其角は大高忠雄の遺作「二ツの竹」に句を寄せています。
宝井其角が詠んだその他の俳句
- 夕涼み よくぞ男に 生まれけり
- 鐘ひとつ 売れぬ日はなし 江戸の春
- 雀子や あかり障子の 笹の影
- ちり際は 風もたのまず けしの花
- 寒菊や 古風ののこる 硯箱
- 暮の山 遠きを鹿の すがた哉
- あさぎりに 一の鳥居や 波の音
- あれきけと 時雨来る夜の 鐘の声
- 川上は 柳か梅か 百千鳥
- 菓子盆に けし人形や 桃の花
- 傀儡の 鼓うつなる 花見かな
- いなづまや きのふは東 けふは西
- 海棠の 花のうつつや 朧月
- 水影や むささびわたる 藤の棚
- 夕立や 田を三囲りの 神ならば
- 小坊主や 松にかくれて 山ざくら
- 重箱に 花なき時の 野菊哉
- 水うてや 蝉も雀も ぬるる程
- 稲こくや ひよこを握る 藁の中
- うぐひすや 遠路ながら 礼かへし