【どの子にも涼しく風の吹く日かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音の短い詩である「俳句」。

 

俳句は移ろい行く四季折々のすばらしい光景や、人の心の繊細な動きを選び抜かれた言葉ですくいとり、表現していきます。

 

今回は、俳人の父を持ち自らも俳句の道を進み、昭和・平成の初期まで活躍した俳人「飯田龍太」の【どの子にも涼しく風の吹く日かな】という句をご紹介します。

 

 

山梨県に生まれ育ち、風土を愛し、豊かな感性で格調高い句を多く詠んでいる飯田龍太ですが、この句にはどういった思いが詰まっているのでしょうか?

 

本記事では、「どの子にも涼しく風の吹く日かな」の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「どの子にも涼しく風の吹く日かな」の作者や季語・意味

 

どの子にも 涼しく風の 吹く日かな

(読み方:どのこにも すずしくかぜの ふくひかな)

 

こちらの句の作者は「飯田龍太(いいだりゅうた)です。

 

山梨県の自然を詠み込んだ句を多く作った俳人「飯田蛇笏」の息子です。

 

季語

この句の季語は「涼し」で、季節は「夏」を表します。

 

夏の暑い時だからこそ、木陰、風、水の流れなどから得られる涼しさをより格別に感じることができます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「どの子にも、涼しい風が吹いてくる、そんな優しい夏の日であることだ。」

 

という意味になります。

 

この句が生まれた背景

この句は、飯田龍太の第4句集「忘音(わすれね)」(昭和48年:1968年)に所収されている句です。

 

『忘音』には飯田龍太が45歳晩夏から48歳晩春までの作品が収められています。

 

龍太の人生には、家族との永訣(死別)が多くありました。

 

20代の頃、三人の兄を戦死・病死で亡くし、36歳の時には6歳の幼い次女・純子を亡くします。そして、42歳の頃、父・蛇笏を、45歳の頃、母・きくのを亡くします。

 

飯田龍太の第2句集「童眸」には次女を悼む句、第3句集「麓の人」には父の死の前後、第4句集「忘音」には母の死の前後のことを詠んだ句が多く所収されています。

 

つまり、龍太氏は生涯において亡き家族を思い、悼む日々が続いていたのです。

 

「どの子にも涼しく風の吹く日かな」の句は、夏のある日の光景、目の前にいる子らのことを詠んでいるのでしょうが、現実の子どもたちの姿に、亡き娘の姿を重ねていたのかもしれません。

 

「どの子にも涼しく風の吹く日かな」の表現技法

切れ字「かな」(句切れなし)

俳句の一句の中の感動の中心を表す言葉を切れ字と言います。

(※代表的な切れ字・・・「かな」「や」「けり」など)

 

この句は「吹く日かな」の「かな」が切れ字に当たります。子どもたちの間をさわやかに吹き抜けていく風に作者の思いが詰まっています。

 

また、切れ字のつくところや、普通の文なら句点「。」のつくところは、意味上、リズム上で切れ目があるとし、句切れと呼びます。

 

この句は、最後に「かな」と切れ字がつくところまで切れるところがありませんので、「句切れなし」の句となります。

 

「どの子にも涼しく風の吹く日かな」の鑑賞文

 

【どの子にも涼しく風の吹く日かな】は、子どもたち一人ひとりに向けた作者の優しい視線が感じられる句となっています。

 

「どの子にも」という初句の言葉遣いからして、子どもたちを総体としてとらえるのではなく、一人ひとりに対して作者がまなざしを向けていることが分かります。

 

子どもたちは、夏の日差しの中で思い切り遊んでいたものでしょうか、汗ばんだ体に吹く風はさわやかな涼をもたらしています。

 

さりげなく夏のある日の光景を切り取ったようでありながら、二度と戻らない今を精いっぱい生きている子どもたちの無邪気さや、若さという可能性、生き生きとしたエネルギーを感じさせてくれます。

 

この子どもたちがだれであるのか、場所はどこであるのか、どんなことをしているのか、この句は多くは語っていません。

 

それだけに、この句の描き出す情景は、どこであっても、だれであっても、何をしていても当てはまります。

 

普遍性があって、共感を強く呼ぶことのできる句です。

 

作者「飯田龍太」の生涯を簡単にご紹介!

飯田龍太は、大正9年(1920年)、山梨県に俳人の飯田蛇笏の四男として生まれました。

 

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(父・飯田蛇笏 出典:Wikipedia)

 

龍太は幼少のころから病弱で、20代のころには肺の病気で手術を行っています。病弱が理由で、戦争に出征することを免れましたが、長兄と三兄は戦死、次兄も病死したため、四男の龍太が飯田家を継ぐこととなりました。

 

民俗学者であり、歌人・詩人でもあった折口信夫との出会いをきっかけに、折口が教鞭をとる国学院大学に入学。大学在学中に句を作り始めます。

 

戦中戦後は一時休学し、山梨で農業もしていましたが、戦後復学して國學院大學を卒業しました。

 

その後は帰郷し、父・蛇笏の編集する俳句雑誌「雲母」の手伝いをしたり、山梨県立図書館に勤務するなどしました。

 

1950年代からは俳句の創作活動にいそしむようになり、父の死後は俳句雑誌「雲母」の引き継ぎ、1994年(平成6年)まで主宰をつとめて、900号をもって終刊。事実上俳壇を引退しました。

 

そして、飯田龍太は平成19年(2007年)に86歳で永眠しました。

 

飯田龍太のそのほかの俳句

 

  • 紺絣春月重く出しかな
  • 春すでに高嶺未婚のつばくらめ
  • いきいきと三月生る雲の奥
  • 大寒の一戸もかくれなき故郷
  • 父母の亡き裏口開いて枯木山
  • 一月の川一月の谷の中
  • かたつむり甲斐も信濃も雨の中
  • 白梅のあと紅梅の深空あり
  • 貝こきと噛めば朧の安房の国