【海に出て木枯らし帰るところなし】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の短い音数で構成される「俳句」。

 

小学校、中学校、そして高校の国語の教科書でも取り上げられ、なじみのある句も多くあることでしょう。

 

今回は、数ある名句の中から「海に出て木枯らし帰るところなし」という山口誓子の句をご紹介します。

 

 

この句は作者の複雑な思いが詰まっており、趣深い俳句として知られています。

 

本記事では、「海に出て木枯らし帰るところなし」の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「海に出て木枯らし帰るところなし」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

海に出て 木枯らし帰る ところなし

(読み方:うみにでて こがらしかえる ところなし)

 

この句の作者は「山口誓子」です。

 

 

この句は1944年に発表した句で「遠星」という句集に収められています。当時50歳頃だった誓子は伊勢湾近くに住んでおり、そこで詠んだものです。

 

季語

この句の季語は「木枯らし」で、季節は「冬」です。

 

木枯らしは冬になると、天気予報で「木枯らしが吹いた」と聞いたことがある方もいらっしゃるかと思います。

 

つまり、秋から冬に変わる時に吹く風のことを指します。

 

また、北側から吹く強く乾いた風で、木から葉を落とし枯らすほどの強い風という意味もあります。これから寒い冬が来ることを連想させますね。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「この地を吹きすさぶ木枯らしは海に出て行くと、行き場をなくし陸に帰ることはない」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

当時50歳頃だった誓子は、自身の療養と疎開を兼ねて伊勢湾近くに住んでいました。

 

そして戦後、この句について誓子が「特攻隊について考えながら詠んだ」と解説しました。

 

1944年の日本といえば、第二次世界大戦の最中で、敗戦の可能性も感じられる時期でもあります。

 

戦闘手段として「神風特攻隊」といった命を犠牲に戦う方法が出てきたころでもあります。若い人たちが飛行機乗り、片道切符で海へ出て敵の艦隊に突撃していました。

 

当時の様子を考慮すると、特攻隊について述べることは難しく、直接的な表現を避けて詠んだとされています。

 

「海に出て木枯らし帰るところなし」の表現技法

擬人法「帰る」

木枯らしは風ですので「吹く」ものです。

 

しかし、この句では人間のように「帰る」と表現されています。

 

このように物事を人間の動作に例えて表現する技法を「擬人法」と呼びます。

 

木枯らしが帰ってこないことと、神風特攻隊が海に出たきり帰って来ないことを重ねて表現しています。

 

言い切りの「なし」

この句の最後は言い切りの「なし」で締めくくられています。

 

言い切りの「なし」はないものに対する感嘆を生みます。つまり「帰るところがない」ことに対して、作者は嘆きが深いことを示します。

 

加えて、「帰るところがない」ということは、本来であれば「帰るべき場所がある」ことの裏返しを表現しています。

 

句切れなし

句中に切れ字がない場合、または句末に切れ字がある場合は「句切れなし」の句になります。

 

今回の句は「なし(言い切り)」以外で、句に意味切れを示す言葉がないため「句切れなし」の句になります。

 

「句切れなし」そのものに特別な意味はありませんが、今回は文末に句切れがあることにポイントがあります。

 

俳句用語にはありませんが、あえて言い換えるならば「結句切れ」の句と名付けると理解しやすいです。

 

文末に重心が置かれ、一息で読むことができるため、句全体に勢いがついたり、最後の言葉の意味が非常に重くなります。

 

今回の句では文末に「。」(句点)を記載するような表現になり、帰るところのない悲しみがより強調されています。

 

「海に出て木枯らし帰るところなし」の鑑賞文

 

年配になり療養中の誓子は神風特攻隊によって若い命が散っていくことに対して、感じるものが多かったことでしょう。

 

木枯らしに帰る場所があるのに帰ってこないという表現は「本当は帰ってきてほしい」という願いが感じられます。

 

その願いがあっても帰ってこられることが「なし」と言い切れるところに、深い虚無感が表れています。

 

そしてこの句が発表されたときは、誓子の注釈がなくとも多くの人は特攻隊のことを連想したと言われています。

 

つまり、誓子が言うまでもなく、この願いは人々の共通の思いであり願いであったことがわかります。

 

当時の状況からも、帰ってきてほしいと切に願っている様子が伝わります。

 

作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!

(山口誓子 出典:Wikipedia)

 

山口誓子(19011994年)。誓子は「せいし」と読み、本名は新比古(ちかひこ)。京都府出身です。

 

ペンネームの由来は本名の「ちかひこ」から「ちかいこ」へ変化し、「誓い子」と漢字を当てたものです。

 

山口誓子は高浜虚子を師とし、虚子が主催する「ホトトギス」で活躍したことで有名ですが、俳句への考え方の違いから「ホトトギス」を離反します。

 

35歳頃に水原秋桜子の俳誌「馬酔木」へ移ってからは、今までに取り上げられなかった題材を詠むなど新興俳句運動の中心になります。

 

戦後も俳壇で活躍し、敗戦などの経験から生命の根源を追い求める作風へと変化しました。

 

基本的な作風はあるものをそのまま写し取る「写生」の立場をとっています。

 

山口誓子のそのほかの俳句

( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia