日本には多くの有名な俳人がおり、これまでにたくさんの俳句が残されてきました。
そして、現代になっても身近なテーマを中心に数多くの俳句が詠まれています。
今回はそんな数ある名句の中から「古池や蛙飛び込む水の音」という松尾芭蕉の句をご紹介します。
野間記念館の裏の胸突坂を神田川の方へ下ったところにある関口芭蕉庵。神田上水の工事に関わった芭蕉が、しばらく庵を構えて住んでいたそうだ。真筆の句碑があった。
古池や 蛙飛び込む 水の音 pic.twitter.com/2gGEReYP6a
— まえじぃー (花見は自費で) (@maezy6) February 23, 2013
作者はどのような背景でこの句を詠んだのか、またこの俳句を口ずさんだ時の心情はどうだったのでしょうか?
本記事では、【古池や蛙飛び込む水の音】俳句の季語や意味・魅力(すごさ)・表現技法・作者など詳しく解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「古池や蛙飛び込む水の音」の季語や意味・詠まれた背景
古池や 蛙飛び込む 水の音
(読み方:ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)
こちらの句は、著名な俳人「松尾芭蕉」が詠んだ作品です。
それでは、早速こちらの俳句について詳しくお話しさせていただきます。
季語
こちらの句の季語は「蛙」、季節は「春」です。
「蛙」と聞くと梅雨時の初夏のイメージがありますが、春の季語になります。
その理由は、蛙は寒い冬場は冬眠し、春になると賑やかな鳴き声を出して活動し始めるから。
また、田んぼに水を張る、五月初旬に鳴き声が活発になることからも春を指す、季語として使われています。
参考までに、こちらに登場する「蛙」は「ツチガエル」という説が有力です。
意味
この俳句の意味をストレートに解釈すると・・・
「古池に蛙が飛び込む音が聞こえてくるよ」
となります。
しかし、本当の意味は・・・
「蛙が古池に飛び込む音が聞こえて来るほど、なんて静かなのだろう」
となります。
この句が詠まれた背景
こちらの俳句は、松尾芭蕉が隅田川の川岸にある芭蕉庵で、仲間の俳人達と俳句を読んだ際の作品です。
仲間たちと句会の際に詠んだ俳句である説と、この句が発端となり句会が開催されたとの話もあり、真偽は定かではありません。
ですがいずれにしろ、俳人仲間の間でも非常に評価の高い句であることが伺えます。
またこちで出てくる「古い池」は芭蕉庵の近くにあり、門下生が川魚を放流し生簀としていた池を示すとの説があります。
「古池や蛙飛び込む水の音」の表現技法
この句で使われてる表現技法は・・・
- 古池やの部分の切れ字
- 水の音の部分の体言止め
の2つになります。
古池やの部分の切れ字
切れ字とは、文章に余韻を残し、親し身を感じさせるための技法です。
こちらの句では【古池「や」】とすることにより、古池がある情景を読者がイメージしやすくなっています。
また、切れ字には「かな」「けり」などがありますが、ここでは「や」を用いることで俳句を詠む際に一呼吸おくことになり、俳句にリズムが生まれます。
水の音の部分の体言止め
「水の音」の部分が体言止めに該当します。
体言止めとは、名詞(こちらの句では音)を下の句に入れ文章を結ぶ表現方法のことで、体言止めを用いることで俳句全体に力強さ・インパクトが生まれます。
今回の句においては、静かな環境での「水の音」が強調されています。
「古池や蛙飛び込む水の音」の鑑賞文:この句の魅力(すごさ)
こちらの句からは、自然豊かな中で芭蕉が俳句を口ずさんでいる様子が浮かんできます。
句の中に「池」ではなく「古池」を使うことで、荒れ果てた庭園の様子までイメージすることができ、また、1匹の蛙がポチャッと水の中に入る姿がダイレクトに伝わってきます。
その一方で、たった1匹の蛙が水の中に落ちる音が伝わって来るほど、静かな情景であることも想像できます。
この句の魅力(すごさ)は、ズバリ「自ずと情景が伝わってくるという点」にあります。
5・7・5の短い文章にも関わらず、こちらの俳句を読んだ人たちがストレートに情景が浮かびが上がる作品です。
自然が豊かな静かな空間であることを否応なしに想像することができると思います。
俳句の意味を考える前に、自ずと情景が伝わってくるという点がこの作品の凄さであり、魅力なのです。
また、こちらの句の「古池」や「蛙」については実際に存在せず、空想上でイメージをし、俳句を詠んだという話もあります。
ただ一方で「蛙」は実際に存在し、水に飛び込んでいるが「古池」はなかったという説もあり、見解が分かれる部分があります。
いずれにしろ、静かな情景を芭蕉が俳句に残したかったという事には変わりはありません。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
この句を書いたのは、有名な俳人である松尾芭蕉です。
松尾芭蕉は、1644年に三重県伊賀市(当時の伊賀国)で生まれました。本名は松尾宗房です。松尾芭蕉という名は、俳号になります。
芭蕉の実家は農民にしか過ぎなかった上、13歳の時に実父を亡くしてしまい、生活が苦しかったようです。
芭蕉は、18歳の時に藤原良忠の元で奉公をはじめ、小間使いとして働きます。この藤原良忠という人物は俳句を詠むのが上手く、芭蕉が俳諧の世界へ入るきっかとなったのです。
その結果、2人は同年北村季吟に弟子入りをして、俳句の修行をはじまめました。しかし、藤原良忠が亡くなり、24歳だった芭蕉は俳人として一生涯を過ごすことを決意します。
その後は努力の甲斐があり、京都で少し名の知れた俳人となり、江戸への上京を決断したようです。しかし、知人もおらずにいろいろと苦労をしたようです。
やっと江戸で認知されましたが、芭蕉は俗世に嫌気がさし、旅をしながら俳句を詠むことを決意しました。これが奥の細道へとつながります。
このように俳句の世界で生きた芭蕉は、50際の時に赤痢または食中毒にて亡くなりました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)