五・七・五の十七音の短い言葉の中に、美しい情景やそこに感動した自らの心情を織り込む俳句。
日本のみならず、世界でも高い評価を受ける短形詩です。
俳句はリズム感があって覚えやすく、親しみやすいのに、その意味するところは深甚で汲めども尽きぬ魅力があります。
今回は、そんな親しみ深さと奥深さをあわせもつ句の代表例、「いくたびも雪の深さを尋ねけり」という句をご紹介します。
いくたびも
雪の深さを
尋ねけり 正岡子規#折々のうた ふゆ#睦月一月八日#寒山落木 pic.twitter.com/5CHZ7pPRNJ
— 菜花 咲子 (@nanohanasakiko2) January 28, 2018
本記事では、「いくたびも雪の深さを尋ねけり」の季語や意味・表現技法や鑑賞など、徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「いくたびも雪の深さを尋ねけり」の作者や季語・意味・詠まれた背景
いくたびも 雪の深さを 尋ねけり
(読み方:いくたびも ゆきのふかさを たずねけり)
この句の作者は「正岡子規」です。
正岡子規は、江戸時代から親しまれていた俳諧を俳句という近代文学の一ジャンルとして確立していった立役者にして、明治期に活躍した俳人です。
季語と意味
この俳句の季語は「雪」、季節はもちろん「冬」です。
季語を見抜くには、動物や植物、天候といった自然のものに注目するとよくわかります。
この句を現代語訳すると・・・
「庭に積もった雪がはたしてどれくらいの深さになっているものか、何度も家人に尋ねてしまったなあ」
という意味になります。
「いくたびも」というのは、「何度も」という意味です。
この句が詠まれた背景
この句の背景には、あふれる才能を持ちながら若くしてこの世を去ることとなった作者・正岡子規の病があります。
正岡子規がこの句を詠んだ時、彼は肺結核を患い、病の床にありました。
窓から庭に降り積む雪を自らの目で確かめることもできなかったため、家人に何度も雪の深さを尋ねることとなったのでした。
この句は、「寒山落木」という句集に収められています。
寒山落木は正岡子規の死後まとめられたものですが、明治十八年から二十九年にかけて詠まれた句が収められています。(※「いくたびも雪の深さを尋ねけり」は明治二十九年の作です)
この句は、「病中雪」という前書きが添えられた四句の俳句の中のひとつで、他にも以下の三つの句が存在します。
【雪ふるよ 障子の穴を 見てあれば】
「雪が降ってきたよ、障子の穴から庭を覗いていると」といった意味です。
病床に臥し、障子の穴から外の世界をながめつつ、雪が降ってきたことを発見した心の弾みがあらわれれている句です。
【雪の家に 寝て居ると思う ばかりにて】
「雪の降る中、家で寝ていると、外の様子はどんなだろうか、雪はどんなふうに積もっているのだろうかということを思うばかりであることよ」といった意味です。
外の雪を自らの目ではじかに見られないもどかしさが感じられます。
【障子明けよ 上野の雪を 一目見ん】
「障子をあけてくれ、上野に降り積む雪を一目でもみたい」といった意味です。
子規の晩年のすまいは、現在の東京都台東区根岸、上野山の北の方にありました
どの句も子規が病床中、雪に対して特別な思いを抱いていたことが分かる句です。
「いくたびも雪の深さを尋ねけり」の表現技法
「尋ねけり」の切れ字「けり」
切れ字に注目すると、作者がどんなことに感動や興味をもってこの句を詠んだのかが分かります。
近代の俳句でよく用いられる切れ字は、「や」、「かな」、「けり」の三つです。わかりやすい言葉に置き換えると、「…だなあ、…であることよ」というような意味です。
しかし、短い字数に強い気持ちを込めることができるため、俳句において切れ字は重要です。
この句の切れ字は「尋ねけり」の「けり」。
「けり」には、特に強い詠嘆の意(しみじみとした深い感動を表す)がこめられ、言い切る形になるパワーのある切れ字です。
(※この句は切れ字が最後についているので「句切れなし」です)
「尋ねる」は質問する・問う、ということ。雪の深さを問う言葉を発している自分自身に、作者の目は向けられています。
「わがことながら、何度も尋ねてしまったなあ」と、問いを繰り返す自分自身を句の中心に置いているのです。
「いくたびも雪の深さを尋ねけり」の鑑賞文
子規は若いころから肺結核を患っており、当時、肺結核は不治の病とされていました。
徐々にやみ衰えて、日々のことが不如意になっていく自分自身の体の変化に痛烈に向き合いながら句を生み出し続けたのが正岡子規という俳人なのです。
この句を詠んだ時、子規はすでに病床にありました。
自らの力で起き上がり、庭の雪の深さをじかに確かめる力は失われていたのです。
雪が降っていると知れば、どれだけ積もったのか気になって繰り返し問うてしまう自らの稚気をおもしろがる気持ち、そんなたわいもない疑問も人に尋ねなければならないもどかしさ、複雑な思いがこめられた句なのです。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は1867年(慶応3年)、愛媛県松山市に生まれ、名を常規(つねのり)と言います。
江戸時代の終わりに生を受け、日本という国の仕組みが大きく変わる激動を目の当たりにしながら、漢詩を学び、戯作や書画にも親しみつつ大きくなります。
やがて文学を志し、和歌や俳諧といった短型詩を研究しつつ、新しい短歌や俳句を生み出していくこととなりました。
正岡子規は、近代短歌や俳句の祖ともいえる存在なのです。
1889年、22歳にして喀血しました。ホトトギスという鳥は「血を吐いて鳴く」と言われますが、正岡青年はこのホトトギスに自らを重ね合わせ、ホトトギスの別名子規を自らの配合として名乗りました。
正岡子規という文学者と病は切っても切れない関係なのです。
死に至る病を抱えながら、子規は自らの体と精神を冷静に見つめ、1902年(明治35年)に34歳という若さで世を去るまで、数多くの短歌や俳句を作り続けました。
正岡子規のそのほかの俳句
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)