【夕東風や海の船ゐる隅田川】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のたった十七音で、作者が見た景色や思いを綴る「俳句」。

 

季語を使って表現される俳句は、わずか十七音に綴られる言葉の中で、作者の心情や自然の姿を感じることができます。

 

今回は、水原秋桜子の有名な句の一つ夕東風や海の船ゐる隅田川という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「夕東風や海の船ゐる隅田川」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「夕東風や海の船ゐる隅田川」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

夕東風や 海の船ゐる 隅田川

(読み方:ゆうこちや うみのふねいる すみだがわ)

 

この句の作者は、「水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)」です。

 

大正時代から昭和後期にかけて活躍した俳人です。高浜虚子に師事し、昭和初期には「ホトトギスの四S」(水原秋桜子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝)の一人と称されました。

 

 

季語

この句の季語は「夕東風(ゆうこち)」、季節は「春」です。

 

「夕東風」とは、夕方に吹く東風(春先に東の方向から吹く風)のことです。

 

東風は、菅原道真が太宰府に流されるときに「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」【春風が吹いたら、匂いを京から太宰府まで送っておくれ、梅の花よ。主人(菅原道真)がいないからといって、春を忘れてはならないよ】と詠んだ歌から、春を告げる風として知られています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「夕暮れに東風が吹いていて気持ちがいい。隅田川に海の香りがするのは、海の船がつながれているからだろうか。」

 

という意味です。

 

当時の隅田川は、水運の要として江戸市民の生活を支える存在でした。海から川の先へ生活に必要なものを運んでいたのでしょう。

 

春を連れた東風に乗り、船に付いていた海の香りが秋桜子の元に届いたのだと思われます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、『葛飾(かつしか)(1930)に収められています。

 

大正14年(1925年)ごろ、秋桜子が33歳の頃に詠まれたとされています。

 

当時の江戸市民の生活を支えていた隅田川を秋桜子が自分で見たままに詠んだ、隅田川の写生の句だと思われます。

 

「夕東風や海の船ゐる隅田川」の表現技法

「夕東風や」の切れ字

切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動したときに使います。

 

この句は「夕東風や」の「や」が切れ字にあたります。

 

「や」で句の切れ目を表すことで、「この夕風の感じは、もうここに春がやってきたのだ」と、その風で春を感じた喜びが表れているように感じられます。

 

また、五・七・五の五の句、つまり一句目に切れ目の「や」があることから、この句は「初句切れ」となります。

 

「隅田川」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

体言止めを使うことで、美しさや感動を強調したり、読んだ人を引き付ける効果があります。

 

「隅田川」と言い切ることで、作者が川の側で風に吹かれながら船を眺めている様子が強調されているように感じられます。

 

「夕東風や海の船ゐる隅田川」の鑑賞文

 

秋桜子は、夕暮れの隅田川の側で東風を感じました。東風が春を連れてきた感じがして嬉しくなっていると、川のほとりに繋がれている船から海の香りも漂ってきたという句です。

 

「夕東風や」という言葉に、秋桜子が春の訪れを喜んでいる様子が感じられます。

 

身体で春の風を、目で夕暮れの隅田川を見て、そして鼻では海の船からの海の香りを感じるという秋桜子自身が全身で感じたことが綴られた句のように感じます。

 

この句からは目の前にある隅田川と夕東風の情緒が感じられ、夕暮れに隅田川を眺めながら、春を感じる風を受け微笑んでいる秋桜子の姿が目に浮かびます。

 

作者「水原秋桜子」の生涯を簡単にご紹介!

(1948年の水原秋桜子 出典:Wikipedia

 

水原秋桜子は本名を水原豊(みずはらゆたか)といい、明治25年(1892年)東京市神田区猿楽町、現在の千代田区神田猿楽町に生まれました。 

 

家は代々産婦人科の病院で、秋桜子も東京大学医学部を卒業し、産婦人科の医師になりました。1928年から1941年までは、昭和医学専門学校(現在の昭和大学)の初代、産婦人科学教授として務めました。家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として多くの皇族の子どもを取り上げました。

 

句作を始めたのは東京大学を卒業後で、初めは松根東洋城(まつねとうようじょう)に師事しましたが、「ホトトギス」に入り、高浜虚子に師事しました。「ホトトギス」では、山口誓子(やまぐちせいし)、高野素十(たかのすじゅう)、阿波野青畝(あわのせいほ)とともに「ホトトギスの四S」と言われ、黄金時代を築きました。

 

しかし、師事していた高浜虚子の客観写生に満足できないと反発し、「ホトトギス」を離れました。1928年には俳誌「馬酔木(あしび)」を主宰するなどし、高浜虚子や「ホトトギス」に満足していなかった後進の俳人たちを巻き込む形で、新興俳句運動のきっかけを起こしました。

 

きっかけを起こしたものの、新興俳句の無季や口語化には批判的で、定型は守りつつ、個性を通して自然を把握する主観写生、俳句における豊かな人間感情の導入を主張しました。

 

1920年頃には、『万葉集』の研究をしていた窪田空穂に短歌を学んでいたこともあり、古語を生かした万葉調と言われる俳句を作りました。それまではあまり詠まれなかった雑木や野草、野鳥なども詠み込み、このような傾向は「馬酔木」の俳人たちにも広まり、俳壇全体へと広まっていきました。

 

1955年には医業を退き、俳句に専念し、俳句協会会長などを務めました。そして1981年、急性心不全のため88歳で亡くなりました。

 

水原秋桜子のそのほかの俳句