五・七・五の短い音数で構成される「俳句」。
小学校、中学校、そして高校の国語の教科書でも取り上げられ、なじみのある句も多くあることでしょう。
名句と呼ばれる優れた美しい句はたくさんありますが、今回はそんな名句の中から【バスを待ち大路の春をうたがはず】という石田波郷の句をご紹介します。
バスを待ち大路の春を疑はず 波郷 pic.twitter.com/dJ3h4J9A2p
— 瀬川深 Segawa Shin (@segawashin) April 12, 2015
本記事では、「バスを待ち大路の春をうたがはず」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「バスを待ち大路の春をうたがはず」の作者や季語・意味・詠まれた背景
バスを待ち 大路の春を うたがはず
(読み方:ばすをまち おほぢのはるを うたがはず)
この句の作者は、「石田波郷」です。が20歳頃、東京の神田にある大通りで詠んだものです。
波郷の句集「鶴の眼」に収録されています。
季語
こちらの句の季語は「春」、季節はもちろん「春」です。
春の季語は探せば多種多様にありますが、季節の「春」が季語とは率直すぎると感じるかもしれません。
しかし、他のどの言葉にも変換できない春を感じた時はストレートに「春」と表現した方が伝わることがあります。
今回の場合、木々が芽吹いていたことや春の風が吹いたことなど特定の事柄が春を感じさせたわけではありません。
情景全体として春を感じたと考えられます。
そのため、別の季語を使い詳細に語ってしまうと、波郷が感じた春への感動が薄れてしまいます。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「バスを待ちながら神田の大通りに立っていると、陽の光がうららかで、木々が芽吹いていたり装いが春物だったりと、ああ間違いなく春が来たに違いない」
という意味になります。
「うたがはず」は、疑わずのこと。つまり、「確信する」ことを意味します。
また、「大路」は、はばの広い道・大通りのことを指す言葉になります。
この句が詠まれた背景
この句は、石田波郷が20歳頃、東京の神田にある大通りで詠んだ句になります。
この句が詠まれたのは昭和8年の春頃のこと。ポイントはこの時代の状況です。
現代ではバスは当たり前の交通手段で、バス以外にも多種多様な交通手段があります。
しかし、当時の交通手段は馬車もいまだ活躍しており、バスが急速に広がり始めた時代でした。
バスに乗れるということは都会であり、モダン(現代的)な乗り物であったということです。
そして波郷は愛媛県から上京して間もない若者でした。
新幹線や飛行機という手段がない頃に、憧れの水原秋桜子の元で句を作るために故郷を離れています。
つまり、希望に満ち溢れた青春の真ん中に波郷はいました。
そんな波郷がバスに乗るためにぼんやり待っている時間に見て感じたことが詠まれています。
「バスを待ち大路の春をうたがはず」の表現技法
「うたがはず」の断定による句切れなし
「うたがはず」のように断定の言葉があると、句意はそこで切れます。
つまり、今回は句の末尾で切れますので、「句切れなし」の句になります。
句切れなしは一般的に技法があるとされていません。
しかし、今回は一番最後を断定の意味で切ると句全体に勢いのよさが生まれます。
春が来ていることは疑いようがないことを確信し、春の訪れに気づいた生き生きとした気持ちを強調する効果があります。
「バスを待ち大路の春をうたがはず」の鑑賞文
【バスを待ち大路の春をうたがはず】は、青春のウキウキした様子と同時に、春が到来した高揚感が伝わる句です。
上京したての夢と希望が詰まった20歳の波郷は青春を今まさに謳歌している最中です。
そのウキウキが句全体の勢い良さから伝わりますし、句前半の状況が表していると言えます。
それは若者が時代の最先端であるバスを待っている状況です。当時のバスは基本的に都会でしか乗ることができません。
このバス待ちのウキウキ感は今で表現するなら、インスタグラムにあげたくなってしまうような高揚感に似ています。
インスタグラムの代わりに、当時は句で表現したということになります。
さらに、バス待ち中に見た景色によって春の到来に気づいた点がポイントです。
見ていたら気づいたということは、それまで気づかなかったということの裏返しです。
状況を想像すると、何となく見ていた景色に新緑が芽吹いていたり、人々が薄着になっていたりを見て、ハッと春が来たことに気づいたということです。
波郷は直前まで「暦は春だけれども、春はまだ来ていないのでは?」と疑っていたので、句の中にあるように「疑いようがない確信」になりました。
このような春到来への強い驚きが、前半の青春風景と重なり、句全体の新鮮さが増します。
この句は昭和初期を代表する青春の一句と言われますが、キラキラした若々しさが言葉の時代背景とともに感じられます。
作者「石田波郷」の生涯を簡単にご紹介!
(石田波郷 出典:Wikipedia)
石田波郷(はきょう)は愛媛県出身、1931生まれ1969没。本名は哲大(てつひろ)です。
19歳頃に上京し、新興俳句運動の中心人物であった水原秋桜子に師事していました。
しかし、叙情的な作品を中心とする新興俳句運動から離反し、俳句誌を創刊します。
波郷の作品は青春あふれるものや人間性を詠んだものが多く、人間探求派として知られています。
31歳の頃には結核を患い、生涯に渡って入退院を繰り返していました。その晩年は自らの闘病生活を見つめた句が多いのも特徴の一つです。
石田波郷のそのほかの俳句
- 吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
- 初蝶や吾が三十の袖袂
- 噴水のしぶけり四方に風の街
- 霜柱俳句は切字響きけり
- 雁やのこるものみな美しき
- プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ
- 霜の墓抱起されしとき見たり
- 雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
- 泉への道遅れゆく安けさよ
- 今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)