5・7・5の17音のリズムを組み合わせて、季節の移り変わりを描写したり、心を打つ感動を言葉に託したりして、情緒豊かに表現する「俳句」。
プレバトで人気を得た俳人の夏井いつき先生が運営している、YouTube「夏井いつき俳句チャンネルも大盛況です。
いまや、若者から年配の方まで、俳句を趣味にしている方も多いのではないでしょうか。
今回は、有名句の一つ「うそをついたやうな昼の月がある」をご紹介します。
うそをついたやうな昼の月がある(尾崎放哉) pic.twitter.com/UwYhuSfJkC
— 松島 潤平 matsushima-JP (@matsushimaJP) December 15, 2018
本記事では、「うそをついたやうな昼の月がある」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「うそをついたやうな昼の月がある」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
うそをついたやうな昼の月がある
(読み方:うそをついたような ひるのつきがある)
この句の作者は、「尾崎放哉(おざき-ほうさい)」です。
- 生年:明治18年1月20日(西暦1885年)
- 没年:大正15年4月7日(西暦1926年)
季語を含まず、5・7・5の定型に縛られない自由律俳句の代表的な俳人として、種田山頭火(たねだ-さんとうか)と並び称される著名な俳人の一人です。また、新傾向俳句運動の中央誌として「層雲」を発刊した荻原井泉水(おぎわら-せいせんすい)に師事しました。
季語
この句の季語は「月」、季節は「秋」です。
昼の月とは、昼間に出ている月のことです。青い空の上で、まるで白い雲のようにぼんやりと浮かんでいます。だいたい昼過ぎから夕方にかけて、東から南の方角に目を向けると、昼の月の姿を見つけることができます。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「本来なら夜に輝いているべきはずなのに、明るく澄み渡る青い空にぼんやりと浮かぶ昼の月には、なんとも言いようのない場違いな印象があり、その存在そのものが嘘のように感じられます。」
という意味です。
この句が詠まれた背景
この句は、須磨寺時代の西暦1924年~西暦1925年、尾崎放哉が40歳ぐらいの頃に詠んだ句であると言われています。
【須磨寺時代とは?】
1924年3月、知恩院(京都市東山区)塔頭常称院の寺男となる。1か月ほどで同寺を追われ、6月、須磨寺(神戸市須磨区)大師堂の堂守となる。この頃から自由律俳句に磨きがかかる。
<ウィキペディアより引用>
同年と思われる時期に詠んだ句には、以下の句があります。
- こんなよい月を一人で見て寝る
- たった一人になり切って夕空
- 底がぬけた杓で水を呑もうとした
- 色鉛筆の青いいろをひっそりけづって居る
- いつまでも忘れられたままで黒い蝙蝠
「うそをついたやうな昼の月がある」の表現技法
季語のほかに傍題も取り入れている
この句の季語は「月」になります。句の中で出てくる「昼の月」は季語ではなく、副季語または子季語と呼ばれる「傍題(ぼうだい)」です。
ちなみに傍題とは、季語に深く関連しつつ変化していったものであり、いわばサブタイトルのようなものと考えるとわかりやすいでしょう。
自由律俳句の表現方法
この句は「自由律俳句」の表現方法を用いて詠まれています。
自由律俳句とは、基本の5・7・5のリズムから大きく音調を外している句のことです。「上五(かみご)」「中七(なかしち)」「下五(しもご)」に縛られることなく、おおむね自由自在に感情や描写を感情の赴くまま表現できるところが、大きな特徴です。
一句を17音で構成するという制約も気にする必要はありません。ことさらに長くても、ありえないほど短くても、自由律俳句では俳句として成立します。なお、17音より文字数が多い句を長律、17音より文字数が少ない句を短律と言います。
なお、一句に必ず「季語」をひとつ入れるというのは、俳句の大前提であるルールです。しかしながら自由律俳句では、『季語』を入れても入れなくても、どちらでも良しとされています。
句またがりの手法
この句は、「句またがり」の手法も取り入れています。
句またがりとは、文節の切れ目を5・7・5の基本のリズムで切るのではなく、文節の意味が成立するところで区切ることを言います。
- 基本のリズムで詠んだ場合:うそをつい(5音) たやうな昼の(7音) 月がある(5音)
- 句またがりのリズムで詠んだ場合:うそをついたやうな(9音) 昼の月がある(8音)
「うそをついたやうな昼の月がある」の鑑賞文
昼の月の存在感は頼りなげです。まるでクレヨンで書いたような雰囲気で、ところどころ掠(かす)れてぼやけています。
うっすらと白く浮かんでいる昼の月を見ていると、「もしかしたら異世界にいるのではないかしら…」と、違和感のようなものを感じてしまいそうです。
晩年は孤独だったことから、寂しく過ごしたと言われる尾崎放哉。たった一人で、ふと見上げた青空に浮かんでいる、白くかすれたような昼の月を見つけた時の侘しい気持ちを詠んだ一句だと思います。
その存在感の希薄さと自分の生涯を重ねて、なんとも形容しがたい虚しさを感じたのではないでしょうか。
嘘のような・・・と表現しながらも、この孤独感が嘘であって欲しいと願いつつ、ただただ寂しく昼の月を見上げていたのかもしれません。
作者「尾崎放哉」の生涯を簡単にご紹介!
(尾崎放哉 出典:鳥取県立図書館)
尾崎放哉(おざき ほうさい)は、明治18年(西暦1885年)、現在の鳥取市に生まれました。「放哉」は俳号(俳句を詠むときに用いるペンネームのようなもの)であり、本名は「秀雄」です。
明治32年(西暦1899年)、14歳になった頃に俳句を作り始めます。明治33年(1900年)には、鳥取県第一中学校の校友会雑誌『鳥城』に俳句・随想・短歌を発表し、明治34年(1901年)には友人と一緒に共同して同人誌『白薔薇』を発行しました。
明治42年(西暦1909年)、24歳のときに東京帝国大学を卒業。通信社に入社するも1ヶ月で退職してしまいます。翌年の明治43年(1910年)に、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に入社。明治44年(1911年)には、めでたく結婚します。
このままエリート人生の道をまっしぐらかと思われましたが、転落の一途をたどります。大正10年(西暦1921年)に、酒癖や勤務態度の悪さを理由に職務を罷免されてしまいます。大正11年(1922年)に、朝鮮火災海上保険に支配人として朝鮮に赴任。大正12年(1923年)には職務を罷免され、帰国したのちに妻と離縁します。同年に、肋膜炎を発病しています。
大正13年(西暦1924年)、39歳のときに知恩院(京都市東山区)塔頭常称院の寺男となるも、1か月ほどで同寺を追われ、須磨寺(神戸市須磨区)大師堂の堂守になります。大正14年(1925年)、須磨寺を去って小浜常高寺の寺男になります。これまた2か月ほどで常高寺を去り、小豆島霊場第五十八番札所西光寺奥の院南郷庵に入って「入庵雑記」を書き始めます。
大正15年(西暦1926年)、4月7日に逝去。享年41歳。死因は癒着性肋膜炎湿性咽喉カタルであったと言われています。
尾崎放哉の俳句には、基本のルールを順守した5・7・5に則った句も存在しますが、やはり基本となるリズムの原型をとどめていない、自由奔放な句が目立ちます。
風変わりな人柄が伺えるような不可思議な印象は、個人の好みが分かれるかもしれません。しかし、孤独感の辛辣さを訴えつつも、バッドジョークかと思えるような笑えない表現に、なぜか妙な哀愁も感じることでしょう。
もし、尾崎放哉の俳句に触れる機会がありましたら、虚無感をかもしだしたようなシニカルな作風を、ぜひ楽しんでください。
尾崎放哉のそのほかの俳句
(尾崎放哉の石碑 出典:Wikipedia)
- こんなよい月を一人で見て寝る
- 咳をしても一人
- 入れものがない両手で受ける
- 一人の道が暮れて来た
- 墓のうらに廻る
- 足のうら洗えば白くなる
- 肉がやせてくる太い骨である
- 考えごとをしている田螺が歩いている
- 別れ来て淋しさに折る野菊かな
- 今日一日の終りの鐘をききつつあるく
- 土くれのやうに雀居り青草もなし
- ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
- 一日もの云わず蝶の影さす
- 淋しいからだから爪がのび出す
- 一本のからかさを貸してしまった
- いつしかついて来た犬と浜辺に居る
- 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)