五・七・五という短い十七音に、作者の見た景色や心情を紡ぐ「俳句」。
わずか十七音に綴られる、言葉達に込められた想いを読み解くことも俳句を楽しむ醍醐味です。
今回は、有名俳句の一つ「鷹のつらきびしく老いて哀れなり」という句をご紹介します。
鷹のつら
きびしく老いて
哀れなり 村上鬼城
#折々のうた三六五日#霜月十一月十五日#定本鬼城句集 pic.twitter.com/u9woWFg3Zn
— 菜花 咲子(ナバナサキコ) (@nanohanasakiko2) November 9, 2017
本記事では、「鷹のつらきびしく老いて哀れなり」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「鷹のつらきびしく老いて哀れなり」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
鷹のつら きびしく老いて 哀れなり
(読み方:たかのつら きびしくおいて あわれなり)
この句の作者は、「村上鬼城(むらかみきじょう)」です。
村上鬼城は明治から昭和初期に活躍した俳人で、正岡子規に師事していました。
鬼城自身が不遇な環境に置かれていたこともあり、憐れみや哀しみを表現し、俳句に詠みました。耳が不自由だったこともあり、座右の銘を「心耳(しんに)」【心で聞くこと】としていました。
季語
この句の季語は「鷹」、季節は「冬」です。
「鷹」は、タカ目タカ科に属する鳥のことです。厳密な大きさによる区別はありませんが、小さめのものは「鷹(たか)」、大きめのものは「鷲(わし)」と分類されています。
鷹の何種類かは、晩秋に一団となって南の方へ渡ります。冬の始め頃、空を見上げるとその姿を見られることがあります。
「鷹」だけでは冬の季語ですが、「鷹の塒入(とやいり)」や「鷹の塒籠(とやごもり)」「塒鷹(ねぐらだか)」などは夏の鷹の様子を表し、夏の季語として使われているものもあります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「鷹の面構えは、眼光は厳しく鋭いが、年老いていて一層かわいそうだ。」
という意味です。
「鷹のつら」とは、鷹の顔のことです。「つら」と表現することで、鷹の精悍で不敵な面構えを表現しています。
鷹の鋭い眼光はそのままですが、「歳を重ねることには勝てず、老いていることが物悲しい」と鬼城は詠んでいます。この句には、鬼城が見たこと・感じたことがそのまま表現されています。
この句が詠まれた背景
この句は、大正6年(1917年)と大正15年(1926年)に発表された『鬼城句集』に収められています。
鬼城は耳の病気がかなり重く、病弱でした。晩年はほとんど聴こえていなかったと言われています。二男八女の十人の子宝に恵まれましたが、その生活はとても苦しく貧困でした。
そのような境遇から、弱者や病気の苦しみなどを独特の倫理観で詠んだ句が多いと言われています。
この句の他にも、「鷹老いてあわれ烏と飼はれけり」「老鷹のむさぼり食へる生餌かな」「老鷹の芋で飼はれて死ににけり」など、生類への哀憐を詠んだ作品がいくつもあります。
鬼城は老いた鷹の表情を見て、鋭い眼光の中にある「老いに対する悲しさ」を見たのではないでしょうか。
「鷹のつらきびしく老いて哀れなり」の表現技法
「哀れなり」の断定表現
「哀れなり」の「なり」は、断定の表現が使われています。
断定の言い方をすることで、鬼城は強い意志を持って「眼光は鋭いが年老いていて一層かわいそうだ」と言い切る形となっています。
句切れなし
「句切れ」とは、言葉の意味や内容、俳句のリズムの切れ目のことです。
この句は、五・七・五の十七音の中に、最後まで意味が区切れるところがありませんので、「句切れなし」となります。
「鷹のつらきびしく老いて哀れなり」の鑑賞文
鷹は鳥の中では王者でとても強く、弱肉強食の世界で生き残ってきたはずです。
そんな鷹も時の流れや老いには勝てず、眼光の鋭さは未だに残るものの、年老いた姿になりました。その姿を見て「老いの中にある眼光の鋭さが、よりかわいそう」だと、鬼城はこの句に詠みました。
鬼城は老いた鷹の厳しい顔つきの中に、老いの哀しみを見たのでしょう。
鷹の強く精悍なイメージが根底にあるので、「老い」や「哀れ」などのマイナスな言葉の表現が入っていても、この句には凛としたカッコ良さが感じられます。
生き物である鷹や人間が避けることのできない「老い」を通して、時の流れに逆らえない哀しさを表現しているように思われます。
作者「村上鬼城」の生涯を簡単にご紹介!
鬼城忌
俳人・村上鬼城の1938(昭和13)年9月17日の忌日。
秋の暮 水のやうなる 酒二合 pic.twitter.com/6sEv0jxMBs
— 久延毘古⛩陶 皇紀2679年令和元年師走 (@amtr1117) September 16, 2019
村上鬼城は、本名・村上荘太郎(むらかみしょうたろう)といい、慶応元年(1865年)に江戸小石川、現在の東京都小石川に生まれました。
8歳の時に群馬県高崎市に移り、11歳で母方の養子となり村上姓を名乗るようになりました。
陸軍の軍人を目指していましたが耳の病気で難聴となり、断念します。その後、明治法律学校で学び、司法代書人(現在の司法書士)として働きながら正岡子規に俳句を教わり、「ホトトギス」へと投句をするようになりました。
子規の亡くなったあとは、高浜虚子に俳句を教わり「ホトトギス」で活動を始めます。耳の病気の悪化で職を追われた際も、虚子門下の俳人の尽力で復職を果たしました。
その後、10人の子宝に恵まれ生活は困窮していましたが、俳人や選者としても活躍し生活は安定していきました。
昭和13年(1938年)に、群馬県高崎市の自宅で胃癌のため74歳で亡くなりました。
村上鬼城のそのほかの俳句
- 冬蜂の死にどころなく歩きけり
- ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
- 小春日や石を噛み居る赤蜻蛉
- 残雪やごうごうと吹く松の風
- 闘鶏の眼つぶれて飼われけり
- 生きかはり死にかはりして打つ田かな
- 蛤に雀の斑(ふ)あり哀れかな
- 痩馬のあはれ機嫌や秋高し
- 今朝秋や見入る鏡に親の顔
- 花ちるや耳ふつて馬のおとなしき
- 街道をキチキチととぶばったかな
- 夏近き近江の空や麻の雨