五・七・五の十七音に季語や風景、心情を詠み「俳句」。
季節の移り変わりの機微をとらえ詠みこんだ有名な俳句も数多くあります。
今回は、有名俳句の一つ「雀らも海かけて飛べ吹き流し」という句をご紹介します。
鯉のぼりの吹き流しが見られた皐月も早いもので、もう後半…
半切臨書を仕上げました。雀らも海かけて飛べ
吹き流し(石田波郷)
もうすぐ鯉のぼりも🎏
※高木厚人先生の本を参考に pic.twitter.com/sgwHB899Mm— らくだ〜♪ (@hhkat4) May 22, 2019
本記事では、「雀らも海かけて飛べ吹き流し」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「雀らも海かけて飛べ吹き流し」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
雀らも 海かけて飛べ 吹き流し
(読み方:すずめらも うみかけてとべ ふきながし)
この句の作者は、「石田波郷(いしだはきょう)」です。
波郷氏は昭和時代に活躍しました。人間の生活を見つめ、自然を愛した「人間探求派」の俳人です。
胸の病気を抱え入退院を繰り返し、闘病生活を送りながら俳句の普及に尽力しました。
季語
この句の季語は「吹き流し」、季節は「夏」です。
吹き流しとは、鯉のぼりとともに飾られる五色の長い帯状の布のことです。
一番上に飾られることが多く、風になびいている様子が句に詠まれています。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「鯉のぼりの吹き流しに負けないように、雀たちも元気に、海かけて飛んでいけ」
という意味です。
「海かけて」は、古語に「かく」(意味:目指す)という動詞があるため、「海を目指して」とも訳します。
この句が詠まれた背景
この句は、句集「風切」に収められています。
この句は1943年(昭和18年)、東京にて長男が誕生した30歳頃の句と言われています。
当時は太平洋戦争の頃であり、同年に波郷自身も召集されています。長男の誕生を喜び、自分の子供の明るい未来への希望が込められています。
「雀らも海かけて飛べ吹き流し」の表現技法
「飛べ」の表現
「飛べ」は、「飛ぶ」の動詞の命令形です。
強い命令調にすることで、雀たちへの呼びかけや、力強く励ます気持ちを表現しています。
「吹き流し」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法です。
体言止めには、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「吹き流し」の名詞で体言止めすることで、力強く風にはためく吹き流しに読者の視線が向けられるようにしています。
二句切れ
俳句では、意味やリズムの切れ目を句切れといいます。
この句には、二句目(五・七・五の七)に「海かけて飛べ」の言い切りの命令表現が含まれるため、二句切れとなります。
「雀らも海かけて飛べ吹き流し」の鑑賞文
波郷は自身の暮らしを見つめ、暮らす人々を詠んだ「人間探求派」の俳人です。「俳句は文学ではないのだ。俳句はなまの生活である。」と1939年に語っています。
この句は、自身の長男が誕生した際に詠まれました。まさに、自身の暮らしの出来事を詠んだものと言えます。
句では、元気に飛んでいく雀に、自身の子供も健やかにのびのびと成長していってほしいという願いを込めています。また、風に負けずに広い海に向かって飛んでいってほしいという波郷の未来へのエールや希望が込められています。
そして、「海かけて」の海について、このような解釈もあります。
「俳句鑑賞歳時記」(山本健吉 著)において・・・
「作者の郷里の伊予(愛媛県伊予市)の海辺を思い描いているのではないか。するとこれは、少年期の回想風景になる。広々とした大景の持つ明るさの中に、作者の郷愁と言ってもよい、こまやかな主情が流れている。」
と述べられています。
東京で子供が生まれ、ふっと心に故郷の海が浮かんだのかもしれません。
初夏の端午の節句の吹き流しを眺めながら、爽やかな明るい未来を感じることのできる句です。
石田波郷と雀
石田波郷は雀を俳句に多く詠みこんでおり、その数は50句余りと言われています。
ここで代表的な句を3つご紹介します。
【はこべらや 焦土のいろの 雀ども】
戦争において家や田畑が焦土と化しましたが、そんななか地面に力強くはこべらが咲いています。焦土と同じ色をした雀たちも一生懸命に生きています。この句には復興し力強く生きていこうという思いが込められています。
【鳩とゐて 朝焼雀 小さしや】
朝焼けに照らされた鳩とその隣にいる雀の小ささを句にしています。この時、波郷は従軍していましたが、病状が思わしくなく軍鳩取扱兵となっていました。胸の病気が悪化していくなか、戦場で小さな命に目を向けている波郷の姿が浮かびます。
【雀らの 乗つてはしれり 芋嵐】
芋嵐とは里芋の葉に吹きつける強い風のことです。阿波野青畝の句からできた秋の季語です。あまりの強風に葉が裏返り、雀たちも強風に飛ばされているのか、必死で飛ぶ様子が目に浮かびます。
雀は身近な日常生活においてよく見ることのできる鳥です。
波郷は小さな雀たちによく人々の姿を重ねています。闘病生活の長い波郷だからこそ、小さな命に目を向け、尊く感じたのかもしれません。
作者「石田波郷」の生涯を簡単にご紹介!
(石田波郷 出典:Wikipedia)
石田波郷は、1913年(大正2年)3月18日に愛媛県に生まれました。本名は石田哲大(てつお)といいます。
高校の同級生の勧めで俳句を始め、同級生と句会を起こし、教諭の指導をうけていました。
高校卒業の頃になると、新興俳句運動の中心人物であった水原秋桜子に師事し、上京します。大学を中退して句作に励み、師の唱える新興俳句運動を批判するようになり伝統的な俳句技法を重視する姿勢を取るようになりました。
31歳ごろ戦地で肺病を発病し、その後は手術と入退院を生涯に渡って繰り返すようになり、波郷の作風に大きな影響を与えました。
初期の作風は青春の1コマのような叙情的な作品が多く、病と闘うようになってからは自身の生活を見つめ、人間性を詠み続けた「人間探求派」としての作品が多くなっていきました。
戦後は俳誌「現代俳句」の創刊や現代俳句協会の設立に尽力し、俳句を普及するために精力的に活動していました。
そして1969年11月21日、56歳にて心臓衰弱のため亡くなりました。
石田波郷のそのほかの俳句
- バスを待ち大路の春をうたがはず
- プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ
- 噴水のしぶけり四方に風の街
- 泉への道後れゆく安けさよ
- 雨がちに端午近づく父子かな
- 霜柱俳句は切字響きけり
- 雁やのこるものみな美しき
- 霜の墓抱起されしとき見たり
- 雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
- 今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)