【菫ほどな小さき人に生まれたし】俳句の季語や意味・解釈・表現技法・作者など徹底解説!!

 

明治を代表する文豪・「夏目漱石」。

 

『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』など数々の文学作品を残していますが、実は愚陀仏(ぐだぶつ)という俳号を持ち、多くの俳句も詠んでいました。

 

今回は、漱石が詠んだ句の中でも特に有名な「菫ほどな小さき人に生まれたし」という句をご紹介します。

 

 

「菫ほどな小さき人」とは一体どのような人を表しているのでしょうか。漱石がこの句を詠んだ心情も気になりますね。

 

本記事では、【菫ほどな小さき人に生まれたし】の季語や意味・解釈・表現技法など徹底解説していきたいと思います。

 

「菫ほどな小さき人に生まれたし」の作者や季語・意味

 

菫ほどな 小さき人に 生まれたし

(読み方:すみれほどな ちいさきひとに うまれたし)

 

この句の作者は明治時代を代表する小説家、「夏目漱石(なつめそうせき)」です。

 

 

作家だけでなく、評論家や大学教授、英文学者など多分野で活躍していました。

 

親友・正岡子規に感化されたことで俳句をつくり始め、生涯およそ2600もの句を残しています。漱石の詠む俳句は独特のユーモアが溢れており、今なお多くの人々に親しまれています。

 

季語

この句に含まれている季語は「菫」で、季節は「春」です。

 

菫は和歌の世界で、万葉の時代から日本人に詠まれてきた花です。花の形が、大工道具の「墨入れ」と似ていたことから「すみれ」の名前がつきました。

 

春に深い紫色の花を咲かせる菫は、可憐で清純な雰囲気を感じさせます。

 

現代では、コンクリートのわずかな割れ目からも健気に咲いている姿を見かけます。小さな愛らしい姿とは対象的に、凛とした力強さも感じさせる花です。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「道端にひっそりと菫が咲いている。目立たずともたくましく咲く、この花のような人に生まれたいものです」

 

という意味になります。

 

「菫ほどな小さき人に生まれたし」が詠まれた背景と解釈

 

こちらの句は、漱石が30歳の頃に詠まれた句で、明治30年の2月、子規に投句した40句のうちのひとつに含まれています。

 

明治28年~32年はひときわ熱心に句作に励んだ時期であり、日々大量の俳句を詠んでは友人の子規へ送り続けていました。

 

この句は、『漱石句集』(岩波版)では【菫ほどな小さき人に生まれたし】、『俳句大歳時記』(角川版)では【菫ほど小さき人に生まれたし】とあり、「ほど」の後に「な」が入るかどうかで分かれています。

 

これは子規が字余りの「な」を嫌っていたこと、生粋の松山人である子規が松山なまりにも似た表現を嫌ってのことからの斧正ではないかと考えられています。

 

また、この句は漱石が最も鬱々としていた時分に詠まれたものでした。

 

国から経済支援を受ける官費生としてイギリスに留学するも、経済的困窮と孤独によって精神的に衰弱し自室に引きこもる日々を過ごします。

 

半ばノイローゼの状態で帰国した漱石は、日本人初の英文科講師として教鞭をとります。

 

しかし実父の他界や妻とのすれ違い、流産など悲惨な出来事に見舞われます。

 

こうした背景を踏まえると、この句に詠まれた「菫ほどな小さき人」とは、面倒な人の世を離れ、菫のようにひっそりと生きる人を表現していると詠みとれます。

 

「菫ほどな小さき人に生まれたし」の表現技法

「菫ほどな」の表現(字余り)

「菫ほどな」の「な」は、「なり」の連体形「なる」の語尾が脱落したものです。中世から近世にかけては終止法にも連体法にも使われましたが、現代では終止法には用いません。

 

つまり、菫ほど「なる」となるので断定を意味しています。

 

「菫ほどの」とするよりも、「菫ほどな」で小休止することで、菫の柔らかな気持ちが伝わってくるようです。

 

また「すみれほどな」と六文字で構成されているため、「字余り」になっています。字余りとは、俳句の定型である五・七・五の十七音よりも多いことを意味します。

 

日本人が古くから心地よいとされる七五調の響きをあえて壊すことで、読み手に違和感を与え、字余りの言葉が持つ意味を強調する効果があります。

 

この句でもあえて「な」をつけてリズムを崩したことで、より芸術性が高まっているように感じます。

 

生まれたしの「たし」

「生まれたし」の「たし」は、古典文法で使われる願望を表す助動詞です。やがて現代の「たい」へと繋がります。

 

「~したい」という自己の希望と、「~してほしい」という他者への願望とどちらも表すことができます。

 

この句では「生まれたい」「生まれ変わりたい」という漱石自身の思いとして解釈されることが一般的ですが、「生まれてほしい」と訳すこともできます。

 

実はこの句が詠んだ当時、漱石は結婚したばかりで、妻の鏡子は身重でした。そんな背景を踏まえると、この菫の句は、これから生まれてくるであろう子どもに向かって詠んだ句だと解釈することもできるのです。

 

このように読み手によって、様々な味わい方があるのも俳句のおもしろいところですね。

 

「菫ほどな小さき人に生まれたし」の鑑賞文

 

菫の可憐さに憧れる女性が詠んだようなこの句は、のちに文豪と称される「夏目漱石」の作品とは意外に思われるかもしれません。

 

しかし「大きな人間」ではなく、あえて「小さな人間」になりたいと願う、繊細で純真すぎるほどの心情は、いかにも漱石らしい人柄を滲ませています。

 

彼は人間は好きだとしながらも、その人間が作る人間社会はわずらわしく鬱陶しいと感じていました。

 

様々なことに思い悩んでいる中、ふと道端で見つけた菫が、周りの環境を気にもせずあどけなく咲く姿に心を打たれたのでしょう。

 

「菫ほどな小さき人」には漱石の理想が込められており、目立たなくても良い、懸命に咲く菫のように、社会のしがらみにとらわれることなく自分の力を尽くす人生でありたいと切に願っているのが伝わります。

 

作者「夏目漱石」の生涯を簡単にご紹介!

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(夏目漱石 出典:Wikipedia)

 

夏目漱石(18671916年)は、本名を夏目金之助といい東京都新宿区の出身です。

 

漱石が俳句の世界に足を踏み入れるきっかけは、明治時代を代表する俳人・正岡子規との出会いにありました。

 

1889年、東大予備門の同窓生だった子規とは、落語を通じて親交を深めていきます。生涯の友となった二人は互いの才能を認め合い、多大な文学的・人間的影響を与えました。

 

子規との交流は、漱石がイギリスへ留学中の1902年、子規が亡くなるまで長きにわたり続いています。

 

漱石の名も、子規のペンネームの一つから譲り受けたもので、「変わり者」「負け惜しみの強いこと」を意味しています。

 

漱石が詠んだ句は小説同様、独特のユーモアが感じられるものが多く、子規は「意匠が斬新で句法もまた自在だ」と評しています。

 

子規の指導のもと、俳句を自分のものにしていった漱石は、作家になったあとも句を読み続けました。漱石没後の1917年には『漱石俳句集』という個人の句集も刊行されています。

 

夏目漱石が詠んだそのほかの俳句

  • 『 鴬や 障子あくれば 東山 』
  • 『 菜の花の 中へ大きな 入日かな 』
  • 叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな
  • 『 かたまるや 散るや蛍の 川の上 』
  • 『 別るるや 夢一筋の 天の川 』
  • 『 肩に来て 人懐かしや 赤蜻蛉 』
  • 『 凩や 海に夕日を 吹き落とす 』
  • 『 わが影の 吹かれて長き 枯野かな 』