俳句は五七五の十七音で季節や心情を表現する詩歌です。
100年以上前に詠まれた俳句でも、どんな風景や心情だったのか理解できる名句が多く、俳句の奥深さを物語っています。
今回紹介するのは学問の句として名高い「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」です。
学問の
さびしさに堪へ
炭をつぐ 山口誓子#冬の俳句 pic.twitter.com/b4wcWugYbH
— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) January 10, 2015
本記事では、「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」の季語や意味、表現技法、作者などについて解説していきますので、ぜひ最後までご覧ください。
目次
「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
学問の さびしさに堪へ 炭をつぐ
(読み方:がくもんの さびしさにたへ すみをつぐ)
この句を詠んだのは、大正から平成にかけて活躍した俳人、「山口誓子(やまぐちせいし)」です。山口誓子は高浜虚子の弟子で、平成の初めまで俳人として活動し続けました。
初期の誓子は叙情的な俳句を好んでいましたが、後に近代的、都会的なものを題材に俳句を詠むようになります。また、「や」「かな」といった切れ字を用いるのではなく、動詞の終止形・連体形による止めや口語の使用を定着させました。
季語
この句の季語は「炭」です。季節は「三冬」で、冬の季節を通して使えます。
季語の冬は旧暦の10月から1 2月、現在の暦では1 1月から1月です。冬の寒さを耐えるために炭を使うため、冬の季語になっています。
意味
この句の意味は・・・
「冬に1人きりの部屋で学問を学んでいる。肌寒くなってふと目をやると、白くなった炭の入った火鉢が目に入った。そのさびしさに堪えながら、1人でまた新しく炭をつぐのだ」
となります。
冬は樹木も乾燥しているため、炭焼きで炭を作るのにも適した時期です。現在では料理の炭火焼きや囲炉裏、茶の湯で使用されていますが、この句が詠まれた時代では火鉢などの炭を使う道具で暖を取っていました。
この句が詠まれた背景
この句は1924年、山口誓子が24歳のときに作られた句です。
このとき、誓子は東京帝国大学の法学部に属していました。後の兄弟弟子となる水原秋桜子らとともに俳句会を結成するなど充実している学生生活でしたが、本業の学問となるとそうはいきません。
後年の誓子はこの句を「学問の句」と呼び、このように述懐しています。
「試験前には外に遊びも行けず、勉強していると夜が更けて周りが静まりかえって寒さがひしひしとせまってくる。さびしくて仕方ないが試験勉強をやめるわけにはいかず、さびしさを堪えて火鉢に新しい炭をつぐしかない」
誓子は1924年に肺尖カタル(肺結核の初期症状)で大学を休学します。この句は休学の直前に詠まれた句でしょう。
「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」の表現技法
句切れなし
この句は最後まで切れ字や言い切りの形がないため、「句切れなし」です。
句切れとは、「かな」などの切れ字や「けり」という言い切りの表現が入るものです。
最初の五音にある場合は「初句切れ」、次の七音にある場合は「二句切れ」、最後の五音に切れ字や言い切りの形がある場合、もしくは言い切りなどがない場合は「句切れなし」と呼ばれます。
「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」の鑑賞文
「学問のさびしさに堪へ炭をつぐ」という俳句からは、真冬の部屋に一人きりで試験勉強をするさびしさと、学問の道は険しく一人で進まなければならないという覚悟が感じられます。
現代風に言うならば、「試験のために部屋で一人しんとした真冬の夜中に勉強し続けるさびしさ」といったところでしょうか。
現代では暖房器具が切れていてもスイッチを入れればすぐに暖まります。ですが、誓子がこの句を詠んだ大正時代の主な暖房器具は火鉢です。
火鉢の炭は燃え尽きると白い灰になるため、寒い部屋で燃え尽きた炭を寄せて新たに炭を継ぎ足すという行動が一層さびしさを感じさせる句です。
そんなさびしさを感じながら学問を続ける覚悟が「堪へ」という二文字に表れています。
作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!
(山口誓子 出典:Wikipedia)
山口誓子は、1901年(明治34年)に生まれ、1994年(平成6年)という最近まで活動を続けていた俳人で、本名は「山口新比古」です。高浜虚子に師事し、昭和初期に水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝とともに「ホトトギスの四S」と呼ばれていました。
高校時代に俳句会に出席したことで俳諧を志し、正岡子規や高浜虚子が主催する雑誌「ホトトギスに」投句を始め、号を「山口誓子」と名乗ります。東京帝国大学法学部に進学後は水原秋桜子らとともに東大俳句会を再興したことでも有名です。この頃の誓子の句は短歌の趣を取り入れた叙情的な万葉風の句が多く、「や」「かな」などの詠嘆が入る伝統的な作風になっています。
大学卒業後は大手商社に勤めながら俳句を作り続け、「ホトトギス」の選者に選ばれて水原秋桜子らと共に「四S」として知られるようになりました。しかし病気療養をキッカケに「ホトトギス」を辞し、水原秋桜子とともに新興俳句の指導者的存在になります。誓子の俳句は伝統的なものから、近代的、都会的な題材を好み、口語調を用いたものに変わっていきました。
第二次世界大戦後には病気療養や敗戦の衝撃から、「酷烈なる俳句精神」を実現したいと表明し徹底して写生構成、客観描写を強調するようになります。1948年に雑誌「天狼」を主催し、現代俳句を牽引しました。「天狼」は誓子が病に倒れた1993年まで続き、翌1994年に92歳で亡くなっています。伝統的な俳句から新興俳句、現代俳句まで、まさに俳句の歴史を体現したような俳人です。
山口誓子のそのほかの俳句
( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia)