【噴水のしぶけり四方に風の街】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞など徹底解説!!

 

俳句は日本で長く継がれてきた文化の一つです。

 

現代に入ると、作者が様々な手法を凝らして表現豊かに情景を描くようになりました。

 

今回はそんな現代俳句の中から「噴水のしぶけり四方に風の街」という石田波郷の句をご紹介します。

 

 

本記事では、「噴水のしぶけり四方に風の街」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「噴水のしぶけり四方に風の街」の季語や意味・詠まれた背景

 

噴水の しぶけり四方に 風の街

(読み方:ふんすいの しぶけりよもに かぜのまち)

 

この句の作者は「石田波郷」です。

 

作者である波郷は、昭和期に活躍し、青春を感じさせる叙情句や人間探求派で有名な俳人です。

 

(※人間探求派…普段の生活を俳句にしながら、人間の内面も句に読み込む手法を取った人たちのこと)

 

季語

こちらの句の季語は「噴水」で、季節は「夏」を表します。

 

じつは、噴水は明治期に初めて日本に取り入れられました。そのため、季語としては比較的新しく、噴水は近代的なものとして扱われることが多いです。

 

また、噴水が夏として扱われる理由は、涼感があるから。暑い日は水のしぶきに涼しさを感じるため、夏が適当ということです。

 

同様の理由で「滝」も夏の季語として扱われています。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「噴水のしぶきがあちらこちらに飛び散っている。噴水の涼しい風が強く吹きすさぶ街だなあ」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

この句は波郷の初期作で、句集「鶴の眼」に収録されています。

 

波郷は19歳の時に愛媛県から上京し、憧れの俳人たちのもとで精力的に句作し始めます。

 

つまり、波郷は青春を謳歌しながら都会で句作に励んでいたのです。

 

そのため、この当時の波郷の句は近代的なものや都会のキラキラとした様子が句の対象になっていました。

 

この句も同様で、青春を生きている波郷の目に映った様子が描かれています。

 

「噴水のしぶけり四方に風の街」の表現技法

文語体

文語体とは、古典で使われる文法のことです。

 

今回の句においては、「しぶけり」の部分が文語体で、品詞分解すると、【 動詞「しぶく」+存続の助動詞「り」 】になります。

 

つまり、しぶきが上がっているという意味になります。「しぶけり」に詠嘆の意味はなく、状況を説明している部分になります。

 

中間切れ

俳句で句切れとは意味上の切れ目のことで、文が終わっていれば句切れとして成立します。

 

今回の句では「しぶけり」の「り」に注目します。

 

「り」は存続の助動詞で、活用形は終止形で書かれています。

 

つまり、文章はここで完結していることを示すため、句切れがあると考えられます。

 

「しぶけり」は二句目の途中にあたるため、このような句切れを「中間切れ」と呼びます。

 

噴水の しぶけり四方に 風の街

 

中間切れは二つの意味を持たせるときに使用される傾向があります。

 

今回の場合、噴水のしぶきが上がっていることと、それが風で四方に飛び散っていることの両方を示しています。

 

体言止め

体言止めとは、句の末尾が名詞で終わる技法のことを言います。

 

体言止めは名詞を強調する効果と読み手に句の続きを想像させる効果があります。

 

今回の句末は「風の街」という名詞で終わっているため体言止めです。

 

つまり、風の街だったなと作者が感慨深く思っていると同時に、どのような街なのか、読み手に想像させる効果があります。

 

「噴水のしぶけり四方に風の街」の鑑賞文

 

【噴水のしぶけり四方に風の街】は、噴水という近代的なモチーフを使い、夏の爽やかさを読み手に感じさせる句となっています。

 

噴水は夏を示すため夏の空を想像すると、真っ青な空に入道雲が思い浮かびます。

 

そこに噴水があるとすれば、水しぶきが太陽によってキラキラと輝くでしょう。

 

目に浮かぶ情景だけでも光によって爽やかさを感じます。

 

そのしぶきが風によって四方へ飛び散らされているのですから、よほど強い風だと分かります。夏の噴水で涼感を感じるのに、それを風が飛ばしているのですから街全体が涼しくなるようです。

 

それを波郷は風の街と表現しましたが、波郷らしい若々しい伝え方です。

 

作者「石田波郷」の生涯を簡単にご紹介!

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(石田波郷 出典:Wikipedia

 

石田波郷(いしだ はきょう)。1913年生まれ1969年没。本名は哲大(てつお)です。

 

19歳頃に上京し、水原秋桜子のもとで句作に励みます。

 

しかし、切れ字などの従来手法を軽視する新興俳句運動とは相容れず、秋桜子の句誌「馬酔木」から去ります。

 

初期は青春性を詠んだ句が多く、後期は人間の内面を俳句に詠みこむ人間探求派になりました。

 

31歳で肺結核を患うと、晩年まで入退院を繰り返しました。

 

その影響もあり、晩年の波郷は自分の境遇を俳句に詠むようになりました。

 

石田波郷のそのほかの俳句