四季折々の美しい光景や繊細な心の動きを、五・七・五の十七音につめこんだ俳句。
日本が世界の誇れる文学です。
小学校、中学校、高校の国語の教科書でも取り上げられ、なじみのある句も多くあることでしょう。
名句と呼ばれる優れた美しい句はたくさんありますが、今回はそんな名句の中でも【赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり】の句を取り上げたいと思います。
筑波山を散策中に見つけた子規の句碑
「赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり」 pic.twitter.com/40dGvJmwGH— maccian (@maccian_48) May 8, 2014
本記事では、「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
目次
「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」の作者や季語・意味・俳句が詠まれた背景
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり
(読み方:あかとんぼ つくばにくもも なかりけり)
こちらの句の作者は、「正岡子規」です。
正岡子規は、短歌や俳句の分野において大いなる革命を成し遂げたともいえる明治時代の文豪です。
目の前の自然の情景をそのまま写生するように写し取ったような印象的な句をたくさん残しています。
季語
こちらの句の季語は「赤蜻蛉」、季節は秋です。
赤蜻蛉は、体の色が赤いトンボを総称して呼ぶ言葉になります。
秋の平野に飛ぶ昆虫ですので、秋の季節感をしっかり感じることができます。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「赤蜻蛉が舞い飛び、それを見下ろす筑波山の上に広がる空は雲一つない快晴であることよ」
という意味になります。
「筑波」とは茨城県つくば市にある筑波山のこと。万葉の時代から詩歌にも詠みこまれている名山です。
また、「雲も」の「も」は強調の意味がある助詞です。雲が一つもない様子を表しています。
この句が詠まれた背景
こちらの句は正岡子規の句集「寒山落木」巻三に、明治27年の秋の句として収められています。
また、正岡子規の句集である「獺祭書屋俳句帖抄上巻」にも、秋の項目に「郊外散歩」という前書きでこの句が収められています。
子規の住まいは、現在の東京都台東区根岸にありました。そのため、こちらの句は散歩しながら東京から遠く筑波山を望み詠んだことが推測されます。
また、「獺祭書屋俳句帖抄上巻」には、明治27年の秋によく写生をしていたとも記されています。
この句は、まるで一枚の秋の風景のスケッチを見るような、視覚的イメージに訴えかけてくるため、写生をする視点が生かされている句であるといえます。
「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」の表現技法と鑑賞
この句で使われている表現技法は・・・
- 「なかりけり」の切れ字「けり」
- 赤蜻蛉と雲一つない空の「対比」
の2つになります。
「なかりけり」の切れ字「けり」
俳句では、感動の中心を表す言葉として「や」、「かな」、「けり」などの言葉がよく使われます。
これら言葉は切れ字と呼ばれ、「~であることよ」、「~だなあ」と訳されます。
つまり、この切れ字に注目することで、句の作者が何に最も感動しているのかを読み解くことができるのです。
今回の句では「なかりけり」の「けり」が切れ字になります。
「けり」というのは強く言い切る働きがありますので、【雲もなかりけり】というのは、「雲一つない快晴の空であることよ」となり、作者は快晴の秋晴れの空に強い感動を覚えていることが分かります。
赤蜻蛉と雲一つない空の「対比」
対比とは、複数のものを並べることでそれらの共通するところ、または相違するところを比べ、それぞれの特性を際立たせて読者に印象付ける技法です。
この句では、赤蜻蛉の赤い色と、雲一つない空の青さという鮮やかな色彩を対比させています。
この2つを対比させることで、くっきりとした絵のような光景をあたかも読者の眼前に繰り広げるような効果があります。
初句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「赤蜻蛉」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「赤蜻蛉筑波に雲もなかりけり」の鑑賞文
こちらの句は「雲一つない空に赤蜻蛉が悠然と舞い飛び、筑波山の姿もくっきりと目に映る」一幅の絵のような俳句になっています。
そして、青い空を飛ぶ赤蜻蛉の色彩の対比が、やはり鮮烈な印象を与えます。
言葉では表現されていない穏やかな日光や、さわやかな秋の風までも感じさせるようなイマジネーション豊かな句であり、読む人の五感を刺激し、美しい秋の光景を思い起こさせてくれるでしょう。
まるで言葉で描かれたスケッチのよう。シンプルな言葉の中に、自然に対する深い感動が表されています。
作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!
(正岡子規 出典:Wikipedia)
正岡子規は愛媛県松山市にて1867年(慶応3年)に生を受けました。
本名は常規(つねのり)、幼い頃は処之助(ところのすけ)、のち升(のぼる)ともよばれていました。
士族の家に生まれ、漢詩や書画にも親しみ、一時は哲学を学んでいたこともあります。同級には文豪夏目漱石もいました。
新聞社に勤めながら文学にも傾倒し、短歌や俳句といった近代日本の短型詩の芸術性を高めていったのです。
しかし、子規の体は20代のはじめには結核菌に冒されてしまします。結核という病気は当時は不治の病でした。
子規は、徐々に病み衰えていく肉体に向き合いながら、高い精神性をもって創作活動を続けました。
そして、明治35年(1902年)に惜しまれつつその生涯をとじました。享年34歳という早すぎる死でした。
正岡子規のそのほかの俳句
(子規が晩年の1900年に描いた自画像 出典:Wikipedia)
- 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
- 紫陽花や昨日の誠今日の嘘
- をとゝひのへちまの水も取らざりき
- 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
- 夏嵐机上の白紙飛び尽す
- 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
- 山吹も菜の花も咲く小庭哉
- 毎年よ彼岸の入りに寒いのは
- 雪残る頂ひとつ国境
- いくたびも雪の深さを尋ねけり
- 柿くふも今年ばかりと思ひけり
- 鶏頭の十四五本もありぬべし