俳句は五・七・五の十七音で表現する、江戸時代に始まった形式の詩です。
季節の自然や出来事を取り入れた季語を詠み込むことによって、さまざまな風景と心情を表現できます。
今回は、季語を用いない無季俳句の名手と言われた篠原鳳作の有名な俳句の一つである「向日葵の日を奪はんと雲走る」をご紹介します。
8月の空@広島・尾道
向日葵の日を奪はんと雲走る
青空に飽きて向日葵垂れにけり
(篠原鳳作)#写真で伝えたい私の世界 #写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #写真撮ってる人と繋がりたい #cloud #sky #summer pic.twitter.com/vO7y8WkjZN
— ベルマーク教育助成財団 (@bellmarkcafe) August 28, 2017
本記事では、「向日葵の日を奪はんと雲走る」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「向日葵の日を奪はんと雲走る」の作者や季語・意味・詠まれた背景
向日葵の 日を奪はんと 雲走る
(読み方 :ひまわりの ひをうばわんと くもはしる)
この句の作者は「篠原鳳作(しのはらほうさく)」です。
大正から昭和初期にかけて活躍した俳人です。九州や沖縄に住んでいたため、歳時記どおりの季語が馴染まない風土から季語を用いない無季俳句へと傾倒していき、無季俳句の若き旗手として有名になりました。
篠原鳳作(1906-1936)俳人 無季定型
「しんしんと肺碧きまで海の旅」
「幾日はも青うなばらの円心に」#作家の似顔絵 pic.twitter.com/z5ndE7PV3b— イクタケマコト〈新横浜に壁画〉 (@m_ikutake2) September 13, 2014
季語
この句の季語は「向日葵」で、「夏の季語」です。
太陽に例えられることが多い大輪の花を咲かせる向日葵は夏の象徴的な花とされ、多くの俳句に詠まれています。花が太陽の方向を向くという性質から、空へと目線を向けさせる効果もあります。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「向日葵の花を明るく照らしていた太陽の光を奪おうと、雲が走るような速さで流れてくる。」
となります。
太陽の方角に花を向ける向日葵につられて空を見上げると、黄色い向日葵の花を照らしていた太陽があっという間に雲に隠されていく様子が目に浮かぶような表現になっています。
「奪う」という表現からは、直前まで向日葵が存分に太陽の光を浴びていたのに、という天候の移り変わりの速さに驚いているようにも読み取れる一句です。
この句が詠まれた背景
この句は作者が「雲彦」という号を使っていた、1931年から1934年の間に詠まれた句です。
この時期の作者は沖縄県の宮古島の学校に教師として赴任していて、向日葵に関する俳句をいくつか詠んでいます。
作者は進学のために数年上京していましたが、ほとんどの期間を故郷である鹿児島で過ごしています。そんな作者にとって、宮古島という南国で過ごした数年間は刺激的だったようで、パナマ編みなど当時の沖縄の習俗や風土を題材に詠んだ俳句が多いのが特徴です。
「向日葵の日を奪はんと雲走る」の表現技法
句切れなし
この句には詠嘆を表す切れ字の「や」「かな」や、断定を表す「けり」がなく、単語を強調する体言止めもないため句切れがありません。また、動詞など読点で区切れる場所もないため、この句は「句切れなし」の俳句となります。
初句から一気に読めるため、切れ字を使わないことによって雲の流れるスピード感を表しています。にわかに暗雲が立ち込める映像を思い起こさせる表現です。
擬人法
この句では、「日を奪はん」「雲走る」という雲を人間に例える擬人法が2箇所使用されています。
「日が隠れる」や「雲が流れる」ではなく擬人化することによって、まるで雲が意志を持ったかのように空を流れて太陽を隠していく様子がイメージしやすくなる効果があります。
「向日葵の日を奪はんと雲走る」の鑑賞文
この句は、「向日葵を照らす太陽」と「太陽を隠す雲」が走っているような速度で流れてくる様子を詠んだ句です。
夏ということもあり、一気に曇っていく様子からにわか雨や夕立が降るかもしれないという推測を読者に抱かせます。
宮古島は亜熱帯気候に属するため、雨は一日中降り続けることは台風以外では少なく、一度にざっと降るいわゆる「スコール」が多い地域です。
瞬く間に太陽を隠していく雲から雨の気配を感じる、南国特有の雰囲気が読み取れる一句になっています。
作者「篠原鳳作」の生涯を簡単にご紹介!
篠原鳳作(しのはら ほうさく)は、1906年に鹿児島県鹿児島市に産まれました。
大学在学中の1928年に「ホトトギス」に初入選を果たし、さまざまな俳句雑誌に投句するなど積極的な句作を続けています。
1931年に沖縄県の宮古高等学校に教師として赴任すると、吉岡禅寺洞に師事して「雲彦」と名乗り、「天の川」に投句を始めます。この頃から歳時記と南国の季節感のズレに悩み、季節や季語にとらわれない自由な無季俳句を詠む俳人として頭角を表しました。
1934年に病気により故郷の鹿児島へと戻ると号を「鳳作」と改めて句作を続けますが、生来の病弱さから1936年に30歳という若さで亡くなっています。
篠原鳳作のそのほかの俳句
- しんしんと肺碧きまで海の旅
- 満天の星に旅ゆくマストあり
- 春月や道のほとりの葱坊主
- 椰子の花こぼるる上に伏し祈る
- 蟻よバラを登りつめても陽が遠い
- 炎帝につかへてメロン作りかな
- 夜々白く厠の月のありにけり
- いろいろの案山子に道のたのしさよ
- おでん食ふよ轟くガード頭の上
- 吹雪く夜をこれよりひとり聴きまさむ