俳句はわずか十七音のなかで、作者の心情や作品が詠まれた背景を表現します。
読み手が句を読んだ背景や心情を推しはかり、作品を鑑賞してみると、俳句がより一層身近なものに感じられるかもしれません。
今回は、私たちの身近な植物たんぽぽを詠んだ「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」という句をご紹介します。
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踏まれても咲く
タンポポの笑顔かな pic.twitter.com/TwRAeBG56G— chayu (@chayu321) April 16, 2016
本記事では、「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、俳句を勉強する際にお役立てください。
目次
「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
踏まれても 咲くタンポポの 笑顔かな
(読み方 : ふまれても さくたんぽぽの えがおかな)
この俳句の作者は「良寛和尚(りょうかんおしょう)」です。
良寛和尚とは江戸時代後期に活躍した曹洞宗の僧侶で、歌人や書家としてもその名を残した人物です。
季語
この句の季語は「たんぽぽ」であり、季節は「春」です。
「たんぽぽ」は江戸時代には「鼓草(つづみぐさ)」とも呼ばれていました。
なぜ「たんぽぽ」は「春」を表現する季語に該当するのでしょうか?その理由としては、寒い冬が終わりを告げてぽかぽかと春めいた季節に、愛らしい黄色い花を咲かせる植物であることが関係しています。
たんぽぽは花が咲き終わった後に、ふわふわとした綿毛を付ける植物です。この綿毛を題材にして詠まれた俳句も数多くあり、花と同じく季節は「春」となります。たんぽぽを題材にした俳句は全体的に明るく、花や綿毛の可憐さに加えて「力強い」生命力を感じ取れる作品が多く見られます。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「踏まれても踏まれてもタンポポが笑顔で咲いているよ」
という意味になります。
表現そのものがシンプルな構造になっており、俳句に慣れ親しんでいない方でも内容を理解しやすい作品と言えます。
道端に生えているタンポポが、何度も何度も人に踏まれても苦難に負けずに可憐に咲いている様子を表現した作品です。踏みにじれたタンポポが力強く健気に咲く様子が、目に思い浮かんできます。
この句が詠まれた背景
この句はいつ詠まれたものであるか明確な年月日に関しては不明です。
しかし、良寛和尚が僧侶として仏に仕えていた時代は、飢饉・疫病・天災・凶作と普通に生き抜くことすら大変な時代であったことは間違いありません。
このような時代背景のなかで、良寛和尚は人生とは出口の見えない暗いトンネルのようなものであると感じていたのかもしれません。
救いのない世界のなかであっても、力強く命を全うしていこうと1日1日を生きる人々の姿を「たんぽぽ」に重ね合わせて表現したとされています。
「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」の表現技法
「タンポポの」の擬人法
擬人法とは、植物や動物などをあえて人間のように描いて、感情や生命力を吹き込む表現方法です。
この句では、笑うことのないたんぽぽがあたかも人間が笑っているように表現されています。
「笑顔かな」の部分の切れ字
「笑顔かな」の「かな」が切れ字で記されています。切れ字の「かな」は作者の感動を表現する技法です。
この句の作者である良寛和尚が、たんぽぽの逞しい生命力に対して感動している様子が著されています。
「踏まれても咲くタンポポの笑顔かな」の鑑賞文
この俳句は「たんぽぽ」という生命力の強い植物を題材にしているところがポイントです。
生命力の弱い植物であれば、踏みつけられた時点でその命を失い、朽ち果ててしまいます。一方で、たんぽぽは地中の奥深くまで根を張っており、その根がほんの一部でも地中に残っていれば再生できる、とても命強い植物です。
どんなに人に踏まれても、緑色の葉を思いっきり広げて、うららかな春の日差しに向かってまるで笑っているかのように咲く姿を目にすることで、良寛自身も苦難にへこたれずに前向きに人生を進んでいかなれければならないと感じさせられたのかもしれせません。
仏様から与えられた様々な試練を乗り越えられた時に、憂いなく笑顔で過ごせる日が待っているはずと、僧侶らしい視点からこの句を口ずさんだのではとも考察できます。
苦難が目の前に立ちはだかっている際に、勇気をいただける心の拠り所なる一句です。
作者「良寛和尚」の生涯を簡単にご紹介!
(隆泉寺の良寛像 出典:出典:Wikipedia)
良寛和尚は宝暦8年(1758年)に、越後国出雲崎(現在の新潟県出雲崎町)に生まれました。
生家が名主であったことから、良寛和尚自身も名主見習いをはじめましたが、18歳で出家を決意して仏門の道へ進んだと言われています。
出家後は曹洞宗海獄山光照寺で修行に励み、22歳の時に備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺の僧侶国仙和尚に弟子入りして、12年間に及ぶ厳しい勤行に勤しみました。
寛永2年(1790年)に、師匠である国仙和尚の元から独り立ちをして、諸国を巡る旅に出ます。この度により出会った人々の影響を受けて、和歌や俳句、さらに書への造詣を深めたとされています。
子供とまりつきやかくれんぼなどをして遊ぶ、純朴で優しい人柄で知られており、生涯独身でつつましやかな生活を送ったといわれている人物です。
70歳の時に、島崎村(現在の長岡市)に住居を構えましたが、生涯自分で寺を開山することはありませんでした。そして天保2年(1758年)に73歳で亡くなり、その遺骨は長岡市島崎にある隆泉寺に埋葬されました。
良寛和尚のそのほかの俳句
(良寛の墓 出典:Wikipedia)
- 散る桜 残る桜も 散る桜
- 新池や 蛙とびこむ 音もなし
- 梅が香の 朝日に匂へ 夕桜
- 春雨や 門松の注連 ゆるみけり
- 水の面に あや織りみだる 春の雨
- 雷を おそれぬ者は おろかなり
- さわぐ子の 捕る知恵はなし 初ほたる
- 手もたゆく あふぐ扇の 置きどころ
- 秋風に 独り立たる 姿かな
- 秋日和 千羽雀の 羽音かな
- 落ちつけば ここも廬山の 時雨かな
- 焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな