俳句では、五・七・五の十七音で、四季の自然の風景や、細やかな心の動きが凝縮された言葉で表現されます。
リズムよく短い言葉で作られる俳句は、親しみやすくもあり、多くの人の興味を集めています。
世に名句と呼ばれる俳句は数多ありますが、今回はその中でも高浜虚子の代表作でもある「遠山に日の当たりたる枯野かな」という句をご紹介します。
「遠山に日の当たりたる枯野かな」(とおやまにひのあたりたるかれのかな)高浜虚子 pic.twitter.com/nOFEuhDX2E
— yama_a (@yama_634) December 19, 2015
本記事では、「遠山に日の当たりたる枯野かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
目次
「遠山に日の当たりたる枯野かな」の季語や意味・詠まれた背景
遠山に 日の当たりたる 枯野かな
(読み方:とおやまに ひのあたりたる かれのかな)
こちらの句の作者は「高浜虚子」です。
高浜虚子は、女性のような名前ですが、じつは男性です。
江戸時代から続く和歌や俳諧を近代的な短歌、俳句へと変革を推し進めた偉人「正岡子規」の高弟にあたります。
美しい自然の情景を絵画的に描写する句を多く作りました。
季語
こちらの句の季語は「枯野」であり、季節は冬です。
枯野とは、草木が枯れはている野原のことを指す言葉になります。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「日は陰り、遠い山には冬の日が当たり明るくなっているが、目の前には冷え冷えとした枯野が広がっていることよ」
という意味になります。
遠山とは、遠くに見える山のことです。
句の作者の目線は目の前の荒涼たる枯野から遠景にのぞむ山、そしておそらくはその上に広がる空まで遠くのびています。
空間的広がりを感じさせつつも、うつろなうすら寒さを感じさせてくれます。
この句が詠まれた背景
この句は明治33年11月、虚子が26歳の時に詠まれた句です。
虚子は後々になって、この句について・・・
「目の前にある姿で作ったものが本当だ。松山の御宝町のうちを出て道後の方を眺めると、道後のうしろの温泉山にぽっかり冬の日が当たっているのが見えた。その日の当っているところに何か頼りになるものがあった。それがあの句だ」
と述べています。
この句に詠まれた景色は、虚子のふるさと、愛媛県の松山のものだったのです。
目の前に広がるのは荒涼たる枯野。しかし、冬日のあたる遠山に虚子は「何か頼りになるものがあった」と述べています。
枯野は寒々とした暗いイメージですが、日の当たる山にはなにか希望のようなものも感じられます。
「遠山に日の当たりたる枯野かな」の表現技法
「枯野かな」の切れ字「かな」
切れ字とは、作者の詠嘆や感動の気持ちを表す言葉で、「や」「かな」「けり」が代表的な切れ字です。
「…であることよ。…であるなあ。」という風に訳すことができますが、この切れ字に注目することで作者が何に感動してこの句を作ったのか読み解いていくことができます。
今回の句の切れ字は、「枯野かな」の「かな」です。
切れ字のなかでは「けり」がもっとも強い言い切りの形であるといわれますが、「かな」も、「けり」ほど強くはないものの意味を強め感動を表す働きをします。
そのため、この句において、枯野に作者の心が動かされていることが分かります。
切れ字が句の終わりについていて、途中で切れてはいないので句切れなしです。
「遠山に日の当たりたる枯野かな」の鑑賞文
目の前に広がる枯野、遠景となる遠山、そこに光が当たるわけですから、遠山の向こうには空が広がっているのでしょう。
空間的な広さも感じさせる句です。
また、春の芽吹きの野原や、夏のうっそうと生い茂る草原といったものであれば、生命の息吹や躍動といった明るいイメージがありますが、冬の枯野というのは、「寂寞として陰鬱なイメージ」「厳しさに耐えて雌伏して待つ雰囲気」があります。
それでも、遠い山には日の光があたっている、そこになんらかの希望や、やがて来たる春を待ち望む気分もあらわれているといえるでしょう。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
高浜虚子は、明治7年(1874年)愛媛県に生まれました。
虚子というのは、本名である清(きよし)にちなんで正岡子規が考えた雅号です。
高浜清は松山藩の藩士の家の子どもとして生まれ、芸能や文学に触れて育ちました。
河東碧梧桐の仲介で、正岡子規と出会い、短歌や俳句といった近代の短型詩を確立していった正岡子規の弟子のひとりとして活躍しました。
明治30年(1897年)正岡子規らが中心となって俳句雑誌「ホトトギス」が創刊され、翌年からは高浜虚子が主宰となりました。
正岡子規の死後も、「花鳥諷詠」(花や鳥といった自然の美しさを詩歌に詠みこむこと)「客観写生」(客観的に情景を写生するように表現しつつ、その奥に言葉で表しきれない光景や感情を潜ませる)といった考え方をもとに俳句を詠みつづけ、雑誌「ホトトギス」を通じて多くの俳人を育てました。
日本の俳壇の第一人者として活躍し、昭和34年(1959年)85歳でこの世を去りました。
高浜虚子のそのほかの俳句
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)