五・七・五の十七音に、作者の心情や見た風景を写し出す「俳句」。
とても短い詩に込められた想いを読み解くことも俳句の楽しみ方の一つです。
今回は、有名俳句の一つ「小春日や石を噛み居る赤蜻蛉」をご紹介します。
小春日や石を噛み居る赤蜻蛉
/ 村上鬼城(1865~1938)
晩秋の赤トンボの生態を捉えた、俳人の観察眼がキラリと光る一句。 pic.twitter.com/IWjA9Poxf3— 尾園 暁 (@PhotomboOzono) November 24, 2018
本記事では、「小春日や石を噛み居る赤蜻蛉」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「小春日や石を噛み居る赤蜻蛉」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
小春日や 石を噛み居る 赤蜻蛉
(読み方:こはるびや いしをかみいる あかとんぼ)
この句の作者は、「村上鬼城(むらかみきじょう)」です。
村上氏は耳が不自由だったこともあり、病気や生活の苦しさなど、貧窮した生活に苦しんだ鬼城自身の境涯に根ざした句風で、「境涯の句」と評されました。
季語
この句の季語は「小春日」、季節は「冬」です。
小春日と聞くと、「春」という文字が入っているため、春のお話かなと思いがちですが実はそうではありません。
「小春日」とは、11月末ごろから12月の初めのころ(旧暦の10月末ごろから11月の初めごろ)までの、春を思わせるように暖かく、よく晴れた日のことを言います。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「今日は冬なのに、春を思わせるような暖かな日だ。ふとそばを見ると、まるで石を噛むように赤蜻蛉が一匹、じっととまっている。」
という意味です。
「石を噛み居る」とは、石を噛んでいるようなという意味です。
季節はずれに生きながらえた赤蜻蛉が、石の上にとまって、羽を下ろして、じっとしている様子を例えた言葉です。
よく晴れた陽の光で温められた石の上で、じーっと羽を休め、とまっている赤蜻蛉の様子を詠んでいます。
この句が詠まれた背景
この句は、鬼城句集に収められています。
大正8年(1919年)ごろ、鬼城が54歳の頃に詠まれたとされています。
鬼城句集は、大正6年(1917年)と大正15年(1926年)に発表されました。鬼城は耳の病気の状態がとても悪く、仕事を免職になりかけたこともあるくらいです。
73歳で亡くなりましたが、晩年はほとんど耳が聞こえなくなっていたと言われています。そのような境遇から、「孤独の境地から自然を深く見つめた作品」も多いと言われています。
この句も、季節はずれに生きながらえた小さな赤蜻蛉が、陽の光で暖められた石に必死にしがみついている様子を表していて、小さな赤蜻蛉の存在が鬼城の目に止まったのではないでしょうか。
「小春日や石を噛み居る赤蜻蛉」の表現技法
「小春日や」の「や」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
この句は「小春日や」の「や」が切れ字にあたります。
「や」で句の切れ目を強調することで、毎日ではない、とてもよく晴れた春のような暖かい日という特別さを強調しています。
また、五・七・五の五の句、つまり初句に句の切れ目があることから、「初句切れ」となります。
「赤蜻蛉」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。
体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
鬼城が「まるで石を噛むように赤蜻蛉が一匹とまっている」と、その一匹だけ残っていた季節はずれの赤蜻蛉の存在を強調しています。
「小春日」と「赤蜻蛉」の季重なり
「小春日」は冬の季語ですが、「赤蜻蛉」も秋の季語です。
このように、一つの句の中に二つ季語が入っていることを「季重なり」と言います。
今回は、切れ字の「や」が付いている「小春日」が季語とされています。
「石を噛み居る」の比喩
比喩とは、ある物事を他の似たような事物を用いて例えることです。
赤蜻蛉は、石を噛んでいるように見える姿勢でとまっているだけで、実際には石を噛んでいる訳ではありません。そのため、ここでは比喩表現が使われていると言えます。
「居る、赤蜻蛉」の倒置法
倒置法とは、言葉の順序を入れ替えて強調することです。
通常の文では「赤蜻蛉が居る」という文になるところを、「居る、赤蜻蛉」語順を変えることで、赤蜻蛉を強調しています。
「小春日や石を噛み居る赤蜻蛉」の鑑賞文
この句の中で様々な表現技法を使い、一匹の赤蜻蛉の存在が強調されています。
一つひとつの言葉が情景を上手く表していて、太陽の日差しがサンサン降り注ぐ昼間に、石の上にいる小さな赤蜻蛉が一匹、羽休めしている様子がありありと目に浮かびます。
鬼城はとても苦労し、また自身の耳のこともあり、弱いものに目を向けることが多かったのかもしれません。
冬になり、もうすぐ命を終えてしまうであろう赤蜻蛉が、必死に生きている姿が、鬼城の心に深く響いたのでしょう。
作者「村上鬼城」の生涯を簡単にご紹介!
鬼城忌
俳人・村上鬼城の1938(昭和13)年9月17日の忌日。
秋の暮 水のやうなる 酒二合 pic.twitter.com/6sEv0jxMBs
— 久延毘古⛩陶 皇紀2679年令和元年師走 (@amtr1117) September 16, 2019
村上鬼城は、慶応元年(1865年)に江戸小石川、現在の東京都小石川に生まれました。 本名は荘太郎と言い、7歳の時からは群馬県高崎市で暮らしました。
鬼城は、法律を学ぼうとしましたが、耳の病気のため諦め、いろいろな職業に就きました。
明治27年(1894年)30歳の時、高崎裁判所の代書人になり、翌年から正岡子規に俳句を学び、俳誌「ホトトギス」の創刊号から句を投じました。
正岡子規が亡くなったあとは、高浜虚子の庇護を受け、ようやく作品が認められるようになりました。高浜虚子の選で「ホトトギス」に句を出していたころは、飯田蛇笏などと巻頭を競っていました。
私生活では、二男八女の十人の子どもを抱えて苦しい生活を送っていました。そのため、貧しいもの、弱いものに温かい愛情を注いだ作品が多く、また孤独の境地から自然を深く見つめた作品も多々あります。
大正六年に俳誌「山鳩」の選者になったのを初めとし、「若竹」「奔放」などの選者にもなり、俳人としての地位を確立しました。
昭和13年(1938年)に、群馬県高崎市の自宅で74歳で亡くなりました。
村上鬼城のそのほかの俳句
- 冬蜂の死にどころなく歩きけり
- ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
- 闘鶏の眼つぶれて飼われけり
- 鷹のつらきびしく老いて哀れなり
- 生きかはり死にかはりして打つ田かな
- 蛤に雀の斑(ふ)あり哀れかな