五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。
わずかな音に込められた心情を想像するのも、俳句の楽しみのひとつです。
今回は、有名句の一つ「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」をご紹介します。
ある程の菊投げ入れよ棺の中。好きな一句、それ程の菊を捧げることは出来ないけど、花を手向けに月末参ります。二十年かぁ…献杯。 pic.twitter.com/gB0hKl6Qxu
— 芳野@繁忙期 (@000yoshino000) May 2, 2018
本記事では、「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
あるほどの 菊投げ入れよ 棺の中
(読み方:あるほどの きくなげいれよ かんのなか)
この句の作者は、「夏目漱石(なつめそうせき)」です。
日本近代文学の代表作家として知られています。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」「こころ」などの代表作があります。
季語
この句の季語は「菊」、季節は「秋」です。
菊は、キク科キク属の植物の総称です。中国から奈良時代に日本へ渡ってきたのではないかとされています。
日本で品種改良を重ね、現在では、多くの品種が生まれています。食用、鑑賞用、園芸用など様々な目的で使用され、あらゆるところで見かける日本を代表する花です。
黄色や紫、白色の菊は、仏様などへお供えする仏花としても知られています。日本の国花としても使用されており、皇室の紋章にも使用されています。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「ありったけの菊を(亡くなった方を弔うために)棺の中へ投げ入れてくれ」
という意味です。
亡くなった方の棺には、故人の好きだったものや花を一緒に入れることがあります。
その場にあるだけの菊の花を全部投げ入れてほしいという亡くなった人への強い思いが読み取れます。
この句が詠まれた背景
この句は、1910年に夏目漱石が詠んだ句です。
随筆「硝子戸の中」の「二十五」に、この句を詠んだエピソードが書かれています。
この句の前書きには「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」とあります。
楠緒子とは、大塚楠緒子のことです。
才色兼美で知られた女性の文人で歌人としても有名でした。楠緒子の婿養子候補の一人が夏目漱石でしたが、楠緒子が別の婿養子をとって結婚したため、漱石の思いが残っていたのではないかとの見方もあります。
この楠緒子は1910年11月9日に35歳の若さで亡くなってしまいます。このとき、漱石は胃の病で入院中でした。亡くなった楠緒子にささげるため、この句を詠んだとされています。
夏目漱石といえば小説家として有名であって、あまり俳句のイメージがないかもしれません。漱石は、大学の予備門で正岡子規と同級生であり、正岡子規の影響を大きく受けて俳句を始めました。
「漱石」というのはもともとは正岡子規の俳号で、現代語訳すると「変わり者」という意味です。この俳号も正岡子規から譲り受けたとされています。
「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」の表現技法
「投げ入れよ」の「よ」の切れ字
「切れ字」は俳句でよく使われる技法で、感動の中心を表します。代表的な「切れ字」には、「かな」「けり」「ぞ」「や」などがあります。
この句は「投げ入れよ」の「よ」が切れ字にあたります。
「よ」は詠嘆の表現や、呼びかけに使われます。
また、「投げ入れよ」という言葉自体が命令形であることから、「投げ入れてくれ」という強い詠嘆と命令形からより深い悲しみを表現しています。
また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。この句は二句に「よ」がついているため、「二句切れ」の句です。
「棺の中」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法です。
体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する・詠嘆を表し読んだ人を引き付ける効果があります。
今回の句では「棺の中」で詠嘆を表し、漱石の悲しみをこの句を読んだ人に想像させています。
「投げ入れよ」の切れ字の詠嘆の表現と、「棺の中」の体言止めの詠嘆の表現が重なっており、さらに強い詠嘆となり、漱石の強い嘆きや悲しみを感じることができます。
「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」の鑑賞文
楠緒子は、漱石が婿養子になる可能性もあったことから、漱石のマドンナ的な存在であったのではないかと言われています。
自分のあこがれていた人が、自分と違う人と結婚したとしても35歳という若さで亡くなってしまうことに、漱石は強いショックを受けたのかもしれません。
弔いに行きたいけれども、自分自身も胃腸を病んでいて向かうことはできない。
どうか自分が弔問へ行く代わりに、ありったけの菊を棺の中へ入れて、彼女を弔ってほしいという漱石の思いがひしひしと伝わってきます。
作者「夏目漱石」の生涯を簡単にご紹介!
(夏目漱石 出典:Wikipedia)
夏目漱石は、1867年2月9日に東京都新宿区に生まれました。本名は夏目金之助といいます。
幼少期は里子に出されて戻り、養子になってもまた実家に戻るなど波乱ばかりでした。
1889年に大学の予備門で正岡子規が、金之助に文学的、人間的な影響を与えます。
正岡子規が手掛けた漢詩や俳句などの文集「七草集」が学友の間で回覧された際に、漢詩で批評を書いたのが金之助でした。そこから二人の友情が芽生え、正岡子規のペンネームの一つであった「漱石」を金之助に譲り、そこから「夏目漱石」と名乗るようになりました。
1887年に次々と兄や兄嫁が亡くなる不幸に見舞われます。1890年には東京帝国大学へと入学しますが厭世主義・神経衰弱に陥るようになったともいわれています。
英語講師として各地を転々としていましたが、1900年にイギリスへ留学しました。
留学中の1902年に正岡子規が亡くなります。帰国後も教鞭をとりましたが、精神衰弱が激しかったとされています。
1905年に正岡子規の弟子であった高浜虚子に精神衰弱の治療の一環として創作を勧められ処女作「吾輩は猫である」を発表します。その後も立て続けに作品を発表し人気作家となっていきます。
1907年には朝日新聞社へ入社し本格的に職業作家として活動していきます。
度重なる胃潰瘍に苦しめられながらも多くの作品を残し、1916年12月9日に49歳にて亡くなりました。
夏目漱石が詠んだそのほかの俳句
- 『 菫ほどな 小さき人に 生まれたし 』
- 『 菜の花の 中へ大きな 入日かな 』
- 『 叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな 』
- 『 かたまるや 散るや蛍の 川の上 』
- 『 別るるや 夢一筋の 天の川 』
- 『 肩に来て 人懐かしや 赤蜻蛉 』
- 『 凩や 海に夕日を 吹き落とす 』
- 『 わが影の 吹かれて長き 枯野かな 』