明治時代に活躍した偉人「夏目漱石」。
漱石といえば文学作品が先に思い浮かぶ方が多いと思いますが、じつは俳句をたくさん読んでいます。
今回は、漱石が詠んだ句の中でも特に有名な「叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな」という句をご紹介します。
叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな(夏目漱石) #俳句 pic.twitter.com/BLE2cHHjbS
— iTo (@itoudoor) May 9, 2013
この句は漱石らしい滑稽さを発揮した句としても知られています。
本記事では、「叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。
目次
「叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな」の季語や意味・詠まれた背景
叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな
(読み方:たたかれて ひるのかをはく もくぎょかな)
この句の作者は「夏目漱石」、自らの句集「漱石俳句集」に収録されています。
漱石が意識したか不明ですが、江戸時代に大田南畝が「叩かれて蚊を吐く昼の木魚かな」と詠んでおり、それに大変似ている句としても有名です。
季語
この句の季語は「蚊」で、季節は「夏」を示します。
気温が25度を超えると、蚊は種類によっては卵から成虫まで10日という短さで発生します。
そして少量でも水が溜まっていれば、卵を一度に100個は産卵すると言われています。
それを成虫の寿命を迎えるまで数回行うのですから、蚊が夏に爆発的に多くなるということが理解できます。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「お寺の本堂でお坊さんが読経のために木魚を叩いたら、木魚に隠れていた蚊が木魚の口から飛び出して逃げてきたぞ」
という意味になります。
この句が詠まれた背景
夏目漱石には有名文学作品が数多くありますが、実は俳句との関わりが非常に深い人でもあります。
漱石は作家を志す1905年より前の1889年に正岡子規に出会っています。
二人は東京大学予備門の同窓生で、漱石というペンネームも子規から貰うほど親交は深いものでした。
職業として作家になる前は句会にも参加し、当時の俳壇でも名を上げていたと言われています。
漱石は文学も俳句も作風が特徴的で、洒落をきかせたものが多い傾向にあります。[/marker]
これは漱石が落語好きであったためと言われています。
漱石による自伝の中には「落語は好きで何度も聞きに行く」とあったり、「芝居より落語」と書かれています。
そのため、俳句もユーモラスが盛り込まれた作品になりました。
今回の句は、法要のためにお寺へ来ていた際に見た情景を洒落を込めて詠んだと言われています。
「叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな」の表現技法
擬人法
擬人法とは、物体を人に見立てる技法のことです。
木魚の形状は魚の形をしており、音を出すための穴が横向きに開いています。
その形を漱石は人に見立て穴を口とし、そこから吐き出したと表現しています。
今回はお坊さんが木魚をぽくぽくと叩いた瞬間、ぺっと吐き出したように見えたと表現することで面白さを生み出しています。
切れ字「かな」(句切れなし)
この句の末尾は「木魚かな」と「かな」という言葉で締められています。
これは切れ字と呼ばれ、作者の気持ちが動いた部分を示しています。
今回は木魚の部分に焦点が当たっています。
漱石が木魚をユーモラスに詠んでいるところから、木魚の様子が面白くて仕方ないと思っていることが強調されています。
また、この句は結句の「木魚かな」までとくに切れるところはありませんので、「句切れなし」の句となります。
「叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな」の鑑賞文
【叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな】は、漱石のエンターテイメントが表れた、味わい深い句と言えます。
法要の場を想像してみると、いろいろな思いがあることに気が付くかと思います。
親しい人であれば悲しみや感傷にふけるなどネガティブな要素が出てきます。
一方で、あっては欲しくないことですが、法要自体に重点が置かれていないときです。
センチメンタルになるよりも、周囲の様子のほうが気になってきます。
今回の句の状況がそれを物語っています。
お坊さんが読経を始めているときに「木魚から蚊が飛び出てきたぞ」と面白がっています。
木魚に開いた穴を、人がだらりとした様子で口を開けっ放しにしている様子にも例えています。
本来であれば、読経中にそんなことを考えている余裕はあってほしくはありません。
しかし、漱石はどうしても間の抜けた様子にしか見えなかったということが感じられます。
そんなブラックジョーク的なユーモラスさがこの句にあります。
作者「夏目漱石」の生涯を簡単にご紹介!
(夏目漱石 出典:Wikipedia)
夏目漱石(1867~1916年)。本名は夏目金之助(きんのすけ)。現在の東京都新宿区出身。
実家は名家と言われていますが、実際のところはお金に苦しく、漱石は里子や養子に出されています。
9歳頃に実家に戻ることができますが、養父と実父で争いがあったため、21歳まで夏目姓を名乗ることができませんでした。
1889年に正岡子規に出会うと、漱石は子規との親交を深め、同時に俳壇で活躍するようになりました。
作家になっても度々句を詠み、生涯で2600句を残したと言われています。
その一部が漱石没後に句集「漱石俳句集」となって発行されています。
「漱石」という名前の由来は「変わり者である」という意味の漢文から取られています。
夏目漱石のそのほかの俳句
(夏目漱石句碑 出典:Wikipedia)
- 月に行く漱石妻を忘れたり
- 人に死し鶴に生れて冴え返る
- 菫(すみれ)ほどな小さき人に生れたし
- 木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙を守るべく
- 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥(ほととぎす)
- 聞かふとも誰も待たぬに時鳥
- 安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり
- 長けれど何の糸瓜とさがりけり
- 秋風や屠(ほふ)られに行く牛の尻