【雛壇や襖はらひてはるかより】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五・七・五の十七音で表現する、世界でも短い詩の1つです。

 

季節の自然や出来事を取り入れた季語を詠み込むことによって、多彩な表現と感情を表現できます。

 

今回は、水原秋桜子の有名な俳句の一つである「雛壇や襖はらひてはるかより」をご紹介します。

 

 

本記事では、「雛壇や襖はらひてはるかより」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「雛壇や襖はらひてはるかより」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

雛壇や 襖はらひて はるかより

(読み方:ひなだんや ふすまはらいて はるかより)

 

この句の作者は、「水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)」です。

 

大正時代から昭和後期にかけて活躍した俳人です。高浜虚子に師事し、昭和初期には「ホトトギスの四S」(水原秋桜子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝)の一人と称されました。後にホトトギスを離脱し、客観写生ではなく主観を詠む新興俳句が流行するきっかけを作っています。

 

 

季語

この句の季語は「雛」で、「春の季語」です。

 

雛壇に雛人形を飾るのは33日の桃の節句とされ、女の子のためのお祭りの道具として用いられます。

 

元々は平安時代頃の穢れを人型に移して川に流す「流し雛」が原型でしたが、時代を経るごとに人形を作って遊ぶ習慣が増え、江戸時代には現在の雛人形の形になっていました。

 

意味

 

こちらの句を現代語訳すると…

 

「雛壇が飾ってあるなぁ。襖が開かれてはるかより見えるようだ。」

 

という意味です。

 

現在の家は壁とドアで区画を区切っていますが、伝統的な日本家屋では襖や障子で区切り、必要なときに取り払って大部屋にできるような構造の家になっていました。ここでは雛壇を目立たせるために襖を取り払い、遠くからでも雛が見えるようにしています。

 

この句が詠まれた背景

この句はいつ頃詠まれたものか正確な年月日がわかっていません。

 

しかし、「襖はらひて」という表現から家屋が古い日本家屋の構造をしていた頃の句であることがわかります。また、雛壇自体も現在の家庭に多い一段のみのものではなく、「はるかより」見えるほどの三段や五段、最大のものでは七段もある立派なものだったのでしょう。

 

このような建築や雛壇は日本家屋ではなく西洋建築が主流になる戦後ではなく戦前に多かったと考えられているため、この句が詠まれた、もしくは作者がこの風景を見たのは戦前の大正から昭和初期のことだったと考えられます。

 

「雛壇や襖はらひてはるかより」の表現技法

切れ字の「や」

切れ字は主に「かな」「けり」「や」といった詠嘆を表す終助詞が使われます。この終助詞は作者の感動や伝えたいことを際立たせる効果を持つものです。

 

この句では「雛壇や」の「や」が切れ字となり、技法で言うと「初句切れ」にあたります。美しい雛壇が目に飛び込んできて感動した様子を切れ字を使って表現している一句です。

 

省略法

「はるかより」のあとに「見る」「眺める」といった視覚に関わる動詞が省略されています。

 

動詞を省略することで「はるかより」という印象を強調するとともに、多くの描写や情緒を俳句の中に盛り込めるのが省略法の特徴です。

 

また、省略することによって俳句を読み終わったあとに風景を想像させたり余韻を楽しませたりといった効果も持ちます。

 

「雛壇や襖はらひてはるかより」の鑑賞文

 

【雛壇や襖はらひてはるかより】は、襖が取り払われた大広間に飾られている立派な雛壇を目撃した様子を詠んだ句です。

 

家族だけで楽しむのではなく、外からも見えるようにと見通しのいい大広間になった場所に飾られた雛壇は、とても美しく鮮やかなものだったのでしょう。

 

現在ではひな祭りに合わせて大きな雛壇を飾るイベントや、襖をあけて大広間にできる旅館などでしか体感できない風景ですが、当時でもめずらしかったことが「雛壇や」と初句切れで感嘆を表現していることからわかります。

 

通りすがりに雛壇を見つけて感動し、思わず足を止めてじっくりと見ている作者の姿が浮かんでくるような一句です。

 

作者「水原秋桜子」の生涯を簡単にご紹介!

(1948年の水原秋桜子 出典:Wikipedia

 

水原秋桜子は1892年に現在の東京都千代田区に生まれました。ホトトギスの四Sとして知られるほどの俳人であるほか、家業の病院を継いで宮内省侍医寮御用係として多くの皇族を診察するなど医師としても活躍しています。

 

1918年に高浜虚子の著書と出会って俳句に興味を引かれたのを切っ掛けに「ホトトギス」の購読を始めます。1919年に「渋柿」に投句を初めて松根東洋城に師事し、1921年から高浜虚子の指導も受け始めるなど本格的な俳句活動を開始しました。1929年の山口青邨の講演をきっかけに、「ホトトギスの四S(水原秋桜子・高野素十・山口誓子・阿波野青畝)1人として俳壇を牽引していきます。

 

ホトトギスの俳人として知られていましたが、高浜虚子の客観写生論と対立して主観を詠む俳句を提唱したことから離脱し、自身が主宰する「馬酔木」で新興俳句活動を開始するなど新たな近代俳句を創設しました。

 

新興俳句運動からは季語を詠まない無季俳句や口語調の俳句が登場しますが、あくまで季語を詠む文語調の俳句を推進しています。古語を活かす万葉調の俳句も多く作られていて、野草や野鳥を詠む特徴がありました。

 

1955年に医業から身を引いて俳句に専念し、俳人協会会長や日本芸術院会員をつとめるなど戦後の俳壇の担い手となりますが、1981年に88歳で亡くなっています。

 

水原秋桜子のそのほかの俳句