五・七・五の短い音数で構成される「俳句」。
小学校、中学校、そして高校の国語の教科書でも取り上げられ、なじみのある句も多くあることでしょう。
名句と呼ばれる優れた美しい句はたくさんありますが、今回はそんな名句の中から【去年今年貫く棒の如きもの】という高浜虚子の句をご紹介します。
去年今年
貫く棒の
如きもの 高浜虚子
#折々のうた三六五日#師走十二月三十日#六百五十句 pic.twitter.com/VccJYhmPF9
— 菜花 咲子 (@nanohanasakiko2) December 30, 2017
本記事では、『去年今年貫く棒の如きもの』の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「去年今年貫く棒の如きもの」の季語や意味・詠まれた背景
去年今年 貫く棒の 如きもの
(読み方:こぞことし つらぬくぼうの ごときもの)
こちらの句の作者は「高浜虚子」です。
高浜虚子は明治から昭和にかけて、俳人・小説家として創作活動を行いました。また、俳句雑誌「ホトトギス」の主宰として、日本の韻文学を牽引する存在でもありました。
季語
こちらの句の季語は「去年今年(こぞことし)」。新年の季語になります。
「去年」を「こぞ」と読むのは、古語の読み方になります。
「去年今年」とは、大みそかの夜を境に去年と今年が入れ替わっていくことを表す言葉です。
先ほどまでは「今年」と言っていたものが「去年」に移り変わっていく、時の流れを表しています。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「去年と今年を貫いている棒のようなものがある」
という意味になります。
こちらの句の解釈は以下の通りです。
【去年が今年に入れ替わり、一夜明けると昨日は去年となり、今朝は今年と呼ばれるようになっていく。このようにして、時の流れに区切りをつけて人は生きている。しかし、時というものは過去・現在。未来を通して貫く一本の棒のように連続しているものなのだ。時間をどう区切って呼ぼうとも、時の流れの中で一本の芯棒のように曲がらない己の信念がある。】
このような、時間に対する洞察や、作者の人生観があらわれている句です。
この句が詠まれた背景
こちらの句は、昭和25年(1950年)歳末に詠まれた句です。その時高浜虚子は76歳となっていました。
この句は、高浜虚子の居住していた鎌倉駅にも掲出されていましたが、それをみた文豪川端康成が衝撃を受けたとしたこともよく知られています。
高浜虚子は、明治の初期の生まれ。日本という国の仕組み、人々の生活、文化のありかたが大きな転換を迎えているときにこの世に生を受けました。
師の正岡子規らとともに、古典文学の俳諧を近代文学の新たな潮流として進める活動もしてきました。小説を書いていた時期もありましたが、俳句をはじめとする韻文学の第一人者として生きてきた自負もあるでしょう。
二度の大戦を経て、日本が民主主義国家へと生まれ変わるのを見ており、激動の時代を生き抜いた人物といえるでしょう。
高浜虚子はそんな激動な人生を送ったからこそ、76歳にしてこの句を詠みあげることができたのかもしれません。
「去年今年貫く棒の如きもの」の表現技法
初句切れ
句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。
句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。
この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「去年今年」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。
「棒の如きもの」の直喩
あるものを別の何かにたとえて表現することを比喩と言います。
また、比喩の中でも、「まるで~」「さながら~」「~のようだ」「~の如し」などといった、比喩であることを表す言葉を用いた例えの表現を作ることを直喩といいます。
この句では時の流れ、または己の信念を「棒の如きもの」(棒のようなもの)と「如き」という言葉を使って直喩で例えています。
「去年今年貫く棒の如きもの」の鑑賞文
【去年今年貫く棒の如きもの】は、十七文字で時というもの、人生というものを見事に描き切った名句といえます。
この句の「棒」とは、何なのでしょうか?
時の流れを一本の棒にたとえ、「連続したものである」とも「時が流れても自分の中にも確固として変わらない芯棒のようなものがある」とも読めます。
では、作者高浜虚子の中の確固として変わらない芯棒のようなものとは何だったのでしょうか?
高浜虚子は河東碧梧桐と並び称された、近代の俳句や短歌の礎を築いた「正岡子規の高弟」ですが、実は子規とは10歳も離れていません。そして、碧梧桐とは同窓でした。
明治27年(1894年)20歳のころ、子規を慕って虚子と碧梧桐は故郷松山から上京しています。師とは言え大きく年の離れていない正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐らは俳句の改革運動に身を投じ、文学の道を歩むこととなります。
しかし、その道は平坦ではありませんでした。病を得て、儚い運命を悟った子規が、自分の文学の後継者となることを求めた際には虚子は断っています。明治35年(1902年)の正岡子規の死後しばらくは俳句よりも小説を執筆していた時期もありました。
子規のもとで共に活動していた碧梧桐は子規の死後新傾向の俳句を求め、自由律俳句を詠むようになります。
そういった俳壇の流れを憂え、虚子は大正2年(1913年)俳壇に復帰。このころの虚子の心象句として有名なのが、「春風や闘志抱きて丘に立つ」の句です。
「春風が吹く丘に立ち、私は闘志を燃やしている」というくらいの意味です。
この「闘志」には、革新的な俳句を詠む碧梧桐に対し、子規が大切にしていた俳句の伝統を守ろうとする保守派としての虚子の決意があらわれているのです。
俳壇に復活した虚子は、四季の自然を写生するように詠みこむ俳句を詠み続け、日本の俳壇を牽引する存在となりました。
この「去年今年貫く棒の如きもの」の句を詠んだ時、高浜虚子76歳。30代半ばで世を去った師、正岡子規の倍以上の年月を生き、親しみもし争いもした河東碧梧桐も十数年前には鬼籍に入っていました。
そして、世では前衛俳句と呼ばれる新しい俳句の機運が高まりつつあることでした。
老境にあった虚子の心棒のようなもの、それは己の人生観であり、俳句間であったのかもしれません。
作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!
(高浜虚子 出典:Wikipedia)
高浜虚子は愛媛県松山市に生まれました。本名は高浜清(たかはまきよし)。
高浜虚子は明治7年(1874年)、現在の愛媛県松山市に生まれ、昭和34年(1959年)神奈川県鎌倉市で85歳で没しました。本名は高浜清(たかはまきよし)です。
明治期から昭和にかけて活躍した俳人であり小説家です。
同郷の文学者であり、近代俳句の父ともいえる正岡子規に師事して文学の道、俳句の道を選ぶこととなりました。虚子は、師・正岡子規がつけた本名清からくる雅号です。
不運にも若くして亡くなった正岡子規の遺志をつぎ、保守を旨として創作活動を続けました。正岡子規の流れをくむ俳句雑誌「ホトトギス」の編集にも携わりました。
高浜虚子は・・・
- 「花鳥諷詠」(花や鳥といった自然の美しさを詩歌に詠みこむこと)
- 「客観写生」(客観的に情景を写生するように表現しつつ、その奥に言葉で表しきれない光景や感情を潜ませる)
を提唱しましたが、これは俳句雑誌「ホトトギス」にも反映されています。
俳句雑誌「ホトトギス」は多くの俳人を輩出することとなり、後進の育成にも高浜虚子は大きな業績を上げたことになります。
高浜虚子のそのほかの俳句
(虚子の句碑 出典:Wikipedia)