古来より受け継がれてきた伝統文芸の一つである「俳句」。
俳句と聞けば、「松尾芭蕉」「小林一茶」など男性俳人の作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?
古典俳人の多くが男性を占めるのは、俳諧の頃から五・七・五の文芸が男性のものとされてきたためです。やがて大正から昭和にかけて、女流俳人の進出が目立つようになりました。
今回は、女流俳人の中から三橋鷹女の【鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし】という句をご紹介します。
鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし
単なる青空だけよりも、適度な雲がいてくれたほうが、空はずっと広くみえる。 pic.twitter.com/HVUpb5MB6J
— 青舟@5% (@ipod_nao723) September 27, 2018
「鞦韆」とはあまり聞きなれない言葉ですが、どういった意味があるのでしょうか?また、作者の詠みこんだ心情も気になりますね。
本記事では、「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の季語や意味・作者・鑑賞など徹底解説していきます。
目次
「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の季語や意味・詠まれた背景
鞦韆は 漕ぐべし愛は 奪ふべし
(読み方:しゅうせんは こぐべしあいは うばふべし)
この句の作者は「三橋 鷹女(みつはしたかじょ)」です。
昭和期に活躍した女流俳人で、女性の情念を鮮やかに詠む句風で知られています。
季語
この句に含まれている季語は「鞦韆(しゅうせん)」で、季節は「春」を表します。
鞦韆とは、公園や学校に置かれている遊具「ぶらんこ」のことです。古語では「ふらここ」とも言います。
ぶらんこは人工物で一年中あるものなのに、なぜ特定の季節を表す季語になっているのでしょうか?その背景には歴史的な理由があります。
鞦韆は古来中国から渡来した遊具で、元来は春の遊戯として大人が楽しむためのものでした。宮廷の美女達が裳裾を翻して漕ぐ様子から、艶やかな雰囲気を持つ季語として使われてきました。
漢詩にもたびたび鞦韆が春の景物として詠まれています。有名な蘇東坡の「春夜」という詩では・・・
『春刻一刻値千金 花有清香月有陰 歌管楼台声寂々 鞦韆院落夜沈々』
(現代語訳:春の夜の一刻は千金に値するほど素晴らしいものだ。花は清らかな香りをはなち、月は陰に隠れている。先ほどまでは歌や笛の音が賑やかだったのに、中庭には乗る人もなくぶらんこが揺れており、静かに夜はふけていく)
とあり、これらの詩の影響により日本でも「春」をイメージする語として定着していったのでした。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「ブランコは漕ぐものだ、そして愛は奪うものだ」
という意味になります。
この句が詠まれた背景
鷹女は時代に外れた激しい気性の持ち主で、当時の女流俳人の中でも異彩を放つ存在として知られていました。この句も、現代の私達が詠んでもハッとするような斬新さが感じられます。
一見すると、愛に真っ直ぐな女性を詠んでいるようですが、この句がすでに鷹女が五十歳を超えて詠まれたものだと知ると、次世代の昭和期の女学生への呼びかけとして捉えることができます。
恋の季節真っ只中にある乙女達に、「人生の春は短い、躊躇することなく積極的に生きなさい」と応援しているのではないでしょうか。
愛はじっと待つだけの受身の姿勢ではなく、まさにぶらんこを漕ぐように自らが勝ち取るものと表現した鷹女。こうした女性像は、敗戦後の女権拡張の風潮が背景にあるのかもしれません。
また「愛は奪ふべし」という表現は、1920年に発行された作家・有島武郎の評論「惜しみなく愛は奪う」を引用したものといわれています。
「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の表現技法
助動詞「べし」の命令形の表現
この句の「べし」には「~すべき」「~しなさい」という命令形の意味で用いられています。
ぶらんこは漕ぐものと当たり前の認識を持っていますが、同じように愛もまた奪うべきものだと詠んでいます。きっぱりとした強い口調から、女性の力強さや凛とした姿勢が伝わってきます。
また、「べし」を二度重ね脚韻を踏むことで、畳みかけるようなリズム感の良さに面白みを感じます。
中間切れ
中間切れとは、中句の途中で意味上の切れ目がある句を指します。
句と句の間で句切れる方が調子が取りやすいのですが、あえて本来のリズムを崩すことで意味を強める効果があります。
今回の句を五・七・五のリズムで句切ると・・・
鞦韆は / 漕ぐべし。愛は / 奪うべし
となります。
中句を大胆に四音と三音に分けることで、「鞦韆」と「愛」の対句が強調されています。
「鞦韆」と「愛」の対句法
対句法とは、二つの対立するもの、または類似するもの言葉を対にして並べ印象付ける表現技法です。
俳句ではよく用いられる技法で、リズム感を作り出す韻を整えるなどの効果があります。
この句でも「鞦韆」と「愛」が対句になっているのですが、「ぶらんこを漕ぐこと」と「愛を奪い取ること」は、対立も類似もなくなんら関係がないように思えます。
しかし、これらの行動には他者の力を借りることなく、自分自身の力で積極的に行動するという共通点があると考えられます。
渾身の力で蹴り上げ、空高くぶらんこを漕ぎ上げることと、自らの覚悟を持って奪ってでも人を愛すること、そのエネルギーは同じ原点に立っているようにも捉えられます。
対句法を用いることで、「鞦韆」と「愛」という二つの異なる世界が相乗効果を発揮しています。
「鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし」の鑑賞文
「ブランコは力いっぱい漕ぐもの、愛は奪い取るもの」と強い口調で言い切るこの句には、女性の激しい情念や強烈なイメージを感じさせます。
しかし、「愛は奪ふべし」とは略奪愛といった卑俗なものを詠んでいるのではありません。ただ誰かが愛情を注いでくれるのを待つのではなく、ブランコを漕ぐように、自分から愛さなくては意味が無いと主張しているのです。
あえて「奪う」という強い言葉を用いたところに、鋭敏な詩的感覚をもつ鷹女の個性が感じられます。
当時の俳句界は『ホトトギス派」の影響により客観写生が全盛の時代でしたので、主観を露にした単純明快な鷹女の句は少々異色に捉えられたでしょう。
また、この句の最大の特徴は「鞦韆」という語にあるといえます。仮に「ぶらんこ」だとすると軽い印象になってしまい、この句の魅力は伝わらないままだったでしょう。
あえて難解な漢字を用いることで、まだ女性が自由でなかった時代の決意とも取れる強い意志が表現されています。
さらに「鞦韆」という季語が本来持つ、妖艶な雰囲気がこの句の魅力を引き立てています。
作者「三橋鷹女」の生涯を簡単にご紹介!
三橋鷹女 好きだ pic.twitter.com/A7Rat2kGEa
— 佐藤哲朗(nāgita) (@naagita) May 18, 2014
三橋鷹女(1899年~1972年)は千葉県に生まれ、本名をたか子といいました。
兄・慶次郎が若山牧水、与謝野晶子に師事していたことから、鷹女も作歌をはじめます。23歳の頃、俳人であり歯科医師であった東謙三と結婚し、俳句の手ほどきを受けました。
その後、謙三とともにホトトギスを代表する俳人・原石鼎に師事しますが、のちにホトトギス派から離れていき、前衛的な句を詠むようになります。
同時期に活躍した「星野立子」「橋本多佳子」「中村汀女」とともに「四T」と称されましたが、女性俳人の中でも異色の存在として知られています。
当時盛んであった写生的な手法に頼らず、日常性を超えた詩的表現や自由な口語表現を駆使し、女性の情念を全面に表現した句風で、昭和期を代表する女流俳人として活躍しました。
晩年に到っては「老い」や「死」について詠んだものが多いですが、俳人としての創作意欲は衰えることがありませんでした。
三橋鷹女全集第二集より。ドキリ、とさせられる句が多く、御本人も妖しい美しさ。よき家庭人であったと何かで読みました。短歌や俳句には詳しくないので、目次に並ぶかたは大岡信氏と馬場あき子氏のみしか知らないです。大切に読もう。 pic.twitter.com/WrjtHktwWk
— 野宮ゆり (@w06220212k) April 14, 2018
三橋鷹女のそのほかの俳句
- この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
- ひるがほに電流かよひゐはせぬか
- みんな夢雪割草が咲いたのね
- 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
- 白露や死んでゆく日も帯締めて