明治に生まれて、大正、昭和、平成のはじめまでを活躍した俳人「山口誓子」。
今回は、山口誓子の多くの句の中でも有名な「夏草に汽缶車の車輪来て止まる」という句をご紹介します。
夏草に
汽罐車の車輪
来て止る 山口誓子
#夏の俳句#山口誓子 pic.twitter.com/JwC5FMdasH
— 桃花 笑子 (@nanohanasakiko) July 14, 2015
本記事では、「夏草に汽缶車の車輪来て止まる」の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「夏草に汽缶車の車輪来て止まる」の季語や意味・詠まれた背景
夏草に 汽缶車の車輪 来て止まる
(読み方:なつくさに きかんしゃのしゃりん きてとまる)
こちらの句の作者は「山口誓子」です。
女性と勘違いされがちですが山口誓子は京都府出身の男性俳人です。明治に生まれ、大正・昭和・平成のはじめまでを活躍した俳人です。
季語
この句の季語は「夏草」、季節は「夏」を示します。
夏草とは、夏の野原に生い茂る生命力にあふれる草葉のことをいいます。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「夏草が生えているあたりに、汽缶車がきて、やがてそこに車輪がとまった。」
という意味になります。
「きかんしゃ」は「機関車」と書くのが一般的ですが、作者はあえて「汽罐車」と表記しています。(※「罐」は「缶」の旧字体。)
この句の生まれた背景
この句は、山口誓子の第二句集「黄旗」(昭和10年 1935年刊行。)に所収の句です。
昭和8年(1933年)の詠で、「大阪駅構内」と言うテーマでの連作の中のひとつで、こちらの句は、引き込み線に汽車が入ってきたときの様子を詠んだ句とされます。
山口誓子は、汽車が好きで大阪駅に出かけて機関車を良く眺めていたそうです。
汽車というような、都会的なものを句に詠みこむことは当時にしては斬新でした。
こちらの句は、動いている車輪がやがて止まる、それを夏草の向こうに見ている様子が詠まれていますが、絵画的というより、映画もしくは映像のような句です。
このような点に、山口誓子の句の新しさがありました。
この句がおさめられた句集「黄旗」が刊行された年は、山口誓子が伝統的な花鳥諷詠や客観写生を旨とするホトトギス派から離れ、より抒情的、主観写生的な句をもとめるようになった時期でした。
「夏草に汽缶車の車輪来て止まる」の表現技法
こちらの句で用いられている表現技法は・・・
- 句切れなし
- 「夏草」と「汽缶車の車輪」の対比
になります。
句切れなし
意味や内容、調子の切れ目を「句切れ」といいます。
「句切れ」は、俳句にリズム感を持たせる効果がありますが、こちらの句は、最後まで意味が句切れる箇所がありません。
すなわち、「句切れなし」の句になります。車輪が近づいてきてとまる一連の動きを一息に詠みあげた句となっています。
「夏草」と「汽缶車の車輪」の対比
対比とは、複数の言葉を並べてその共通点やまたは相違点を比較し、それぞれのもつ特性をより強調して印象付ける表現技法のことです。
この句では「夏草」と「汽缶車の車輪」が対比されています。
夏草は「汽缶車の車輪」の大きさに比べたら、柔らかく弱いものです。
また、「汽缶車の車輪」は轟音を立てて大きく動くものですが命あるものではありません。それに対して夏草は風にそよぐ動きをするくらいですが、命あるもの、命のエネルギーにあふれるものです。
「夏草」と「汽缶車の車輪」を組み合わせて配置したところに、この句の大きな特徴があります。
「夏草に汽缶車の車輪来て止まる」の鑑賞文
【夏草に汽缶車の車輪来て止まる】の句は、夏の駅のある瞬間の出来事を鋭く切り取った句です。
大きな汽缶車が音を立てて近づいてきてとまる瞬間を詠んでいますが、作者の視線は、夏草越しに汽缶車の大きな車体をとらえています。
そこから視野を狭めて車輪を見つめ、最後にピタリと車輪がとまるその瞬間まで息をつめて見守っているかのようです。
線路わきに生い茂った夏草は、汽缶車が近づいたときにはあおられてそよぎ、車輪がとまると同じく動きを止めます。
青々とした夏草と、真っ黒い汽缶車の色彩の対比も印象的に感じます。
もともと「缶」は旧字体で、「夏草に汽罐車の車輪来て止まる」と表記されていました。
漢字を多用することで硬質なイメージを作り出しているところもこの句の特徴です。
作者「山口誓子」の生涯を簡単にご紹介!
(山口誓子 出典:Wikipedia)
山口誓子(やまぐち せいし)は、明治34年(1901年)、京都府の生まれです。本名は新比古(ちかひこ)といいます。
雅号の「誓子(せいし)」は、「ちかひこ」→「ちかい こ」→「誓い 子」と、本名をもじったものです。
大正に句作をはじめ、昭和、平成の初期まで長く活躍した俳人です。
幼い頃に母を亡くし、祖父に引き取られ、樺太(からふと。現在のロシアのサハリン島。)に移り住み、数年を過ごしたこともありました。
大正9年(1920年)、京大三高俳句会に出席して後、日野草城らに指導を受けながら句作に本格的に取り組み、俳句雑誌「ホトトギス」へ俳句を投稿するようになりました。
昭和の初期には、ホトトギス派の四Sとして、水原秋桜子、高野素十、阿波野青畝らとともに並び称されました。
しかし、のちに方向性の違いからホトトギス派から離れ、俳句の新たな可能性を試す新興運動の指導的立場にたつこととなりました。
苦しい戦時中を過ごし、病と闘い、人生は平坦ではありませんでした。23年(1948年)、俳句雑誌「天狼」の創刊に関わり、のち主宰もつとめました。
平成6年(1994年)92歳で永眠しました。
山口誓子のそのほかの俳句
( 摂津峡にある句碑 出典:Wikipedia)
- 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ
- 突き抜けて天上の紺曼珠沙華
- 匙なめて童たのしも夏氷
- かりかりと蟷螂蜂の皃(かほ)を食む
- ほのかなる少女のひげの汗ばめる
- 夏草に機缶車の車輪来て止まる
- 海に出て木枯らし帰るところなし
- 夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
- 炎天の遠き帆やわがこころの帆
- ピストルがプールの硬き面にひびき
- 流氷や宗谷の門波荒れやまず