【しんしんと寒さが楽し歩みゆく】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の心情や見た風景を写し出す「俳句」。

 

季語を使って綴られる俳句は、短い言葉の中で作者の心情やその自然の姿を感じることができます。

 

今回は、星野立子の有名な句の一つしんしんと寒さが楽し歩みゆくという句をご紹介します。

 

 

本記事では、「しんしんと寒さが楽し歩みゆく」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説しますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「しんしんと寒さが楽し歩みゆく」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

しんしんと 寒さが楽し 歩みゆく

(読み方 :  しんしんと さむさがたのし あゆみゆく)

 

この句の作者は、「星野立子(ほしのたつこ)」です。

 

星野氏は明治から昭和を生きた俳人で、高浜虚子の次女です。昭和を代表する女性俳人で、初の女性主宰誌『玉藻(たまも)』を創刊、主宰しました。

 

 

季語

この句の季語は「寒さ」、季節は「冬」です。

 

「寒さ」は、寒い冬の様子を表す季語です。

 

「寒さ」とは、体感で寒く感じること・感覚的に寒く感じることを指します。他にも、心理的に身がすくむような場合にも用いられます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「しんしんとした寒さが楽しい、私は歩いてゆく…。」

 

という意味です。

 

「しんしん」とは、寒さが身に深くしみ通る様子・夜が静かに更けていく様子・雪が静かに降り積もる様子のことです。

 

一般的に「しんしん」という言葉を聞くと、とても寒い時期に雪が降る様子などが思い浮かびます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、『立子句集』(昭和8年)という本に収録されています。

 

この本には作者が34歳以前の作品が集められているため、こちらの句もその頃に詠まれたものだと思われます。

 

星野立子は「高浜虚子の次女」です。父の高浜虚子に師事し、虚子の句風である客観写生・花鳥諷詠に従い、句を詠んでいました。

 

女性らしい繊細な感覚で、やわらかく素直な心持ちで自然を朗詠する句が多いと評価されています。

 

この句も、まるで幼い子どもが寒い雪の中を喜んで駆け回るような、明るく楽しい気持ちが伝わってくる句に感じられます。

 

「しんしんと寒さが楽し歩みゆく」の表現技法

「寒さが楽し」の「し」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などがよく用いられ、句の切れ目を強調するときに使います。切れ字はこの3字の他に、全部で18字あります。

 

この句は「寒さが楽し」の「し」が切れ字にあたります。

 

俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたります。「し」で句の切れ目を強調することで、その後に続く「歩みゆく」の凛とした雰囲気を強調しています。

 

また、五・七・五の五の句、つまり二句に句の切れ目があることから、この句は「二句切れ」となります。

 

擬態語「しんしん」

擬態語とはオノマトペとも言われ、身振りや状態をそれらしく表した言葉のことです。

 

例えば、ずっしり重い・にこにこ笑う・ゆらゆら揺れる・ゆったりとした時間を過ごすなど、他にもたくさん種類があります。

 

この句で使われている「しんしん」は静寂を表す擬態語です。

 

「しんしんと」の言葉で、静かな寒い冬の夜の情景を表しています。

 

「しんしんと寒さが楽し歩みゆく」の鑑賞文

 

一つひとつの言葉がストレートに響く句で、とても楽しそうに歩く立子の様子が目に浮かびます。

 

この時代の女性はまだ和服が多く、防寒具も今ほど温かいものはありません。

 

そのため、冬の寒さは辛く感じることの方が多いと思いますが、立子はこの句で寒さを「楽しい」と表現しています。

 

その寒さが楽しいと思える理由は何か?と考えると、冬の夜道を誰かと一緒に歩いていたのか、誰かに会いに行く途中なのか、歩き始める前に何か良いことがあったのかと、たくさんの想像が膨らみ、立子の心情に想いを馳せることができます。

 

冬の静けさのなかで、寒さを楽しく感じるほどに気分の良い立子の姿が目に浮かびます。

 

最後の「歩みゆく」には、凛とした立子の強さのようなものを感じ、前向きに生きていくというようなメッセージが感じられます。

 

作者「星野立子」の生涯を簡単にご紹介!

 

星野立子は、明治36年(1903年)東京都麹町区富士見町、現在の東京都千代田区に生まれました。 

 

本名も立子(たつこ)で、父は有名な俳人の高浜虚子です。立子は、7歳の時に鎌倉に移住しました。

 

大正14年に作家で『文学界』主宰の星野天知(てんち)の息子で、鎌倉彫職人の星野吉人と結婚し、『ホトトギス』の発行所に就職しました。

 

大正15年ごろに、父の高浜虚子の勧めで作句を始めました。第一作は、「ままごとの飯もおさいも土筆かな」と女性らしい視点から読まれた句でした。

 

昭和5年には父の勧めで女流としては初めての主宰誌『玉藻』を創刊し、昭和9年には『ホトトギス』の同人となりました。

 

客観写生による花鳥諷詠に従い作句し、やわらかく素直な心持ちで自然を朗詠しました。晩年は主観的、心情的な作句にもなりましたが、師事した父の高浜虚子の句風である「写生」を基本としました。

 

同時期に活躍した、中村汀女、橋本多佳子、三橋鷹女とともに「四T」と称されました。

 

父の死後は、朝日俳壇の選者など活動の場も広がりましたが、昭和45年に脳血栓で倒れてからは句作と療養の日々でした。

 

昭和59年、直腸癌により、81歳で亡くなりました。立子は鎌倉の寿福寺に葬られ、「雛飾りつつふと命惜きかな」という自筆句碑が建てられています。

 

父である高浜虚子は、自分の子どもの中で立子の俳句の才能を最も買っていたと言われています。立子の一人娘の星野椿(本名は早子)、椿の息子の星野高士(たかし)も、俳人です。

 

星野立子のそのほかの俳句

 

  • 誰もみなコーヒーが好き花曇
  • 昃(ひかげ)れば春水の心あともどり
  • ままごとの飯もおさいも土筆かな
  • 囀をこぼさじと抱く大樹かな
  • 朴の葉の落ちをり朴の木はいづこ
  • 父がつけしわが名立子や月を仰ぐ
  • 美しき緑走れり夏料理
  • 雛飾りつゝふと命惜しきかな