【来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり】俳句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説!!

 

俳句は、日本のみならず世界にも多く愛好者を持つ詩のひとつです。

そんな俳句は、小学校から国語の教科書にも載っているので、覚えるともなく記憶にしみこんでいる句も一つや二つはあるのではないでしょうか?

 

また、大人になって自ら俳句を作って楽しむ方も、たしなまずとも鑑賞して楽しむ方も多くいることでしょう。

 

今回はそんな数ある名句の中から「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」という水原秋桜子の句を紹介していきます。

 


 

本記事では、『来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり』の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」の作者や季語・意味・背景

Pieris japonica

(馬酔木 出典:Wikipedia

 

来しかたや 馬酔木咲く野の 日のひかり

(読み方:こしかたや あしびさくのの ひのひかり)

 

こちらの句の作者は「水原秋桜子」です。

 

大正時代から昭和後期にかけて活躍した俳人です。

 

高浜虚子に師事し、昭和初期には「ホトトギスの四S」(水原秋桜子、山口誓子、高野素十、阿波野青畝)の一人と称されました。

 

 

季語

この句の季語は「馬酔木咲く」、季節は春です。

 

「馬酔木(あせび)」とは、春、白い鈴のような可憐な花を咲かせる低木のこと。この木には毒があり、動物もこの木は食べません。

 

この句はじつは、奈良の東大寺の三月堂からの景色を詠んだものです。

 

東大寺や春日大社などのあるあたりは、古寺や貴重な遺跡のある所として国有地であり、明治13年(1880年)、奈良公園として開園しました。

 

春日大社の神の使いとされる鹿が多くいますが、鹿は他の草木は食べても毒のある馬酔木を食べないので、馬酔木がたくさん生えています。

 

俳句仙人

馬酔木、鹿、古寺などは、奈良の大和路を代表する風物とされています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「自分が歩いてきた方を振り返ってみると、馬酔木の白い花が咲き乱れ、春の陽ざしが降り注ぐ美しい野であることだ。」

 

という意味になります。

 

この句が生まれた背景

こちらの句は、水原秋桜子が昭和2年(1927年)に奈良に俳句を詠む旅に出かけた際に詠まれた句になります。昭和5(1930)に刊行された句集「葛飾(かつしか)」に収録されています。

 

この句には前書きで「三月堂」とついています。「三月堂」とは、東大寺の伽藍のひとつです。

 

(三月堂 出典:Wikipedia)

 

当時の水原秋桜子は古都奈良にあこがれる気持ちが強く、何度も奈良、大和路を旅していました。

 

思想家、和辻哲郎が大正8年(1919年)に刊行した「古寺巡礼」という、大和路を旅した折の印象をまとめた名著があるのですが、秋桜子はこの本を愛読、自らも大和路を辿って俳句を詠んでいたのでした。

 

東大寺三月堂の周りには馬酔木が多く、古都らしい光景を美しく詠み込んだ、秋桜子らしい句と評価も高い一句です。

 

俳句仙人

秋桜子は昭和4年(1929年)からは、俳句雑誌「馬酔木」の主宰もつとめており、「馬酔木」という言葉は秋桜子にとって特別なものだったのかもしれません。

 

「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」の表現技法

「ac 写真 馬酔木」の画像検索結果

 

こちらの句で用いられている表現技法は・・・

 

  • 「来しかたや」の切れ字「や」による初句切れ
  • 「日のひかり」の体言止め

     

    になります。

     

    「来しかたや」の切れ字「や」による初句切れ

    句中の「来しかたや」の「や」を切れ字と言います。

     

    切れ字とは、「…だなあ」というような意味に訳され、句の感動の中心を表す言葉です。

    (※現代では「や」、「かな」、「けり」の3つが代表的な切れ字となっています)

     

    切れ字「や」は初句に置かれることが多く、この句もその例にもれません。初句で切れるので「初句切れ」となります。

     

    また、「や」は「かな」や「けり」に比べると軽い印象で、ここで一息ついて調子を整えるような印象があります。

     

    つまり、三月堂で自分が歩いてきた方をふと振り返ってみた時に、感興が沸き起こってきたことを表しています。

     

    俳句仙人

    ほの暗い三月堂の堂宇のなかから眺める外の景色はより一層輝いて見えたことに心を動かされたのでしょうか。

     

    「日のひかり」の体言止め

    体言止めとは、文の終わりを体言、名詞で終わることで句の印象を強めたり、余韻を残したりする働きをする表現技法のことです。

     

    「日のひかり」とこの句を終わることで、春のひかりの柔らかさ、穏やかな美しさを印象付けています。

     

    「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」の鑑賞文

     

    【来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり】の句は、馬酔木さく大和路の春の光景を印象的に詠み込んだ美しい句です。

     

    前書きの「三月堂」という言葉と合わせて情景を想像すれば、ぼんやりと暗い三月堂の内部、そこから振り返って仰ぐ春のひかりの柔らかなまばゆさの対比が印象的です。

     

    可憐な白い馬酔木の花、野原は萌え出でた若草色に染まっていることでしょう。明と暗のコントラスト、色彩イメージも豊かな句です。

     

    「来しかたや」とは、自分が歩いてきた方向をみやって出てきた言葉です。

     

    そのまま読めば、空間的に今まで歩いてきた方向を振り返ってみたということです。

     

    俳句仙人

    しかし、深読みすれば、過去自分がたどってきた道筋ややってきたことを思い返してみた、と時間的なものとして読み解くこともできるでしょう。

     

    「来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり」の補足情報

    歌道における馬酔木

    歌道において馬酔木は、早春に白い壺状の花を房状に咲かせる清楚な姿から和歌の題材として親しまれてきました。

     

    葉や花に毒性を持つため、見た目の美しさと内に秘められた危うさが対比的に表現され、純粋さやかすかな不安の象徴ともされます。

     

    特に「春の野」や「山里」と共に歌に詠まれ、里の情景や人の心の機微を映し出す役割を担いました。

     

    万葉集では、下記の歌など馬酔木と春の里が組み合わされて詠まれています。

     

    「馬酔木花  吹き散る里の 青柳を 見ずて過ぎめや 春の暮れなむ」

    (訳:馬酔木の花が風に散る里で、青柳を見ないまま春を過ごしてしまうだろうか)

     

    俳句仙人

    また、古今和歌集や万葉集にも多く登場し、季節感を添える草木として歌道に重要な位置を占めています。

     

    東大寺三月堂について

    (三月堂 正面(礼堂) 出典:Wikipedia)

     

    東大寺三月堂(法華堂)は、奈良時代に創建された東大寺最古の建物で、国宝に指定されています。

     

    天平時代の建築様式を伝える「奈良時代の正堂」と、鎌倉時代に増築された「礼堂」から成る複合建築で、奈良時代と鎌倉時代の様式が共存する点が特色です。

     

    本尊の不空羂索観音立像をはじめ、十大弟子立像、四天王立像など多数の国宝仏像を安置し、仏教芸術の宝庫として名高い堂宇です。

     

    俳句仙人

    前述の馬酔木を詠んだ万葉集が編纂された時代とも被る建物で、「馬酔木」と「三月堂」の組み合わせに歴史のロマンを感じていたのかもしれませんね。

     

    水原秋桜子と馬酔木

    作者は、自らが主宰した俳句雑誌を「馬酔木(あせび)」と名付けています。

     

    新しい誌名「馬酔木」は、彼が敬慕した万葉集に詠まれる植物に由来し、万葉調への志向を示しています。

     

    また、馬が食べると酔うという毒性を持つ植物の性質から、旧来の俳壇への反骨精神を込めたとも言われます。

     

    俳句仙人

    この改題には、「ホトトギス」からの独立と、新たな俳句の道を切り拓くという作者の強い決意が込められていました。

     

    作者「水原秋桜子」の生涯を簡単にご紹介!

    (1948年の水原秋桜子 出典:Wikipedia

     

    水原秋桜子は、本名を水原豊といいます。明治25年(1892年)生まれの、大正昭和に活動した俳人、歌人であり、医師でもありました。

     

    松根東洋城、高浜虚子らに師事、日本の俳壇をしきっていたホトトギス派に新たな風をもたらし、一時代を築き上げた一人でもありました。

     

    後に、ホトトギス派の作句の態度とは違う方に進み、「ホトトギス」を離れることになります。新興俳句運動を進めていくこととなり、俳句雑誌「馬酔木」を主宰もつとめました。

     

    昭和42年(1967年)には勲三等瑞宝章を受章。そして、昭和56年(1981年)病没、88歳でした。

     

    水原秋桜子のそのほかの俳句